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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」

2021-08-15 13:58:27 | 本と雑誌
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」 大久保康雄 訳 新潮文庫
昨年「嵐が丘」(エミリ・ブロンテ)を再読したときから、いずれ「ジェーン・エア」もと考えていた。最初に読んだのは2003年、その時は直前に読んだ「嵐が丘」よりはわかりやすかったけれど、年月が経ち内容はよく覚えていない。
 
今回じっくり読んでみて、これはなかなかいろんな要素、視点と持った充実した物語であり、また読み進めるうえでの面白さもそなえている作品で、2世紀にわたってよく読まれているだけのことはあると納得した。
 
ジェーン・エア、出生直後に孤児となり、親族に預けられたが、のけ者にされ、へこまない強さと頭を持っているために寄宿学校に追いやられ、そこでも衝突が多く苦労するが行き抜いて教師ができるようになり、広告を出し家庭教師の職をもとめて、ある財産家の館にたどり着く。そこの主となかなか理解しあえないが、愛し合うようになる。しかし主の過去には秘密があり、それを引きずっていることがわかると彼女は荒野に飛び出しさまようが、あぶないところで牧師の兄妹一家に救われる。しかし、その兄の牧師の伝道への強固な誘いに負けそうになり、やっとのことで、館の主の声を感じて、戻っていくと、、、という物語。
  
これも「嵐が丘」同様、例の「批評理論入門」が頭にあるから物語の語り方を注意して見ると、この作品は典型的な一人称、つまり主人公ジェーンの語りという形になっている。それでも、ジェーンの思いが強く出ている部分と、もう少し淡々と描写しているところがある。また時に読者に語りかけ、もうこのあと登場しな人物についてその後を伝えるサービスをしたり、時間を飛ばすにあたってなぜかを書いたりもしている。
 
こういうひたむきな成長物語、それも巧みに面白く書かれた物語を、かなりの年齢になってから読むのもいいものである。高校時代、そのころは世界文学全集がよく売れていて、ブロンテ姉妹もその常連であったが、このブログにも時々書いているように、この姉妹やオースティンの作品、男性が読むのはどうも、と思ったとしたら、もったいなかったと思う。
 
難しく構えた物語より、こういう風に残るものは、時々あるようで、日本のものでも、少し前にようやく読んだ「さぶ」(山本周五郎)など、通じるものがあるようだ。
 
作者(1816-1855)が1847年に発表した本作、解説にもあるように孤児で苦労する境遇、問題ある寄宿学校などヴィクトリア朝時代の特徴、問題点を反映しているともいえるし、後半ジェーンを救った若い牧師が伝道の理想論でせまり、ジェーンがやっとの思いで恋する相手への思いに踏みとどまるあたりは、この時代からのち何らかの「主義」とその支配の問題が芽生えているともいえる。こ牧師の源はおそらく「黙示録」であろうが(この分野詳しくないのでいい加減なことは言えないのだけれど)、「黙示録」についてはかなり後にD.H.ロレンスがその呪縛を解き放つ意味はあったのかもしれない。
 
ながい物語のなかに点在する何人かの女性たちの姿、イメージは記憶に残る。小さい時の子守のベッシー、寄宿学校の先輩ヘレン・バーンズ、テンプル先生、牧師の二人の妹たちなど、優れた筆致が印象的だ。
 
実は本作を再読するにあたり、文庫本でも字が大きい方が楽だし、いろんな作品で優れた新訳がでていることもあり、その一つで読み始めたが、ジェーンが館の主といくぶん難しいやりとりを続けるあたりで、しっくりしなくなってきた。このときジェーンは18、主は38で、いまならなくもない組み合わせなのだが、この物語ではやはり相当な年齢差で、そのあたりも気になり、以前読んだこの訳で読みなおした。やはり「昭和」の雰囲気があっているのかもしれない。



谷崎潤一郎 「盲目物語」

2021-06-29 16:32:31 | 本と雑誌
盲目物語 : 谷崎潤一郎 著  新潮文庫
 
先の「吉野葛」と同じ1931年の発表、文庫にも一緒に収められている。
織田信長の妹お市の方の半生が、彼女に按摩や音曲で仕えた盲目の奉公人の口を通して語られる。語り部は話からすると1552年生まれ、語っているのは大阪夏の陣があって、家康の死のすぐあとということで、1617年である。
 
お市の方の悲しい生涯は、私もいくつかの大河ドラマなどでいろんな角度から知ることとなったが、戦国の題材として作家側からすると、もっとも意欲がわくものであろう。
 
信長の妹、浅井長政に嫁ぐが、信長からすると政略結婚の一つであり、越前朝倉に対抗する布石であったはずが、浅井も朝倉との縁を捨てきれず、長政は結局信長に攻められ自害、お市と娘三人は生きて逃れる。お市に恋慕する秀吉でなく柴田勝家に嫁ぐが、これも秀吉とのせめぎあいで夫婦は自害、娘三人は生き残り、長女茶々は淀君として秀吉の子秀頼を生み、三女小督(江)は徳川秀忠の子家光を生むことになる。この血筋は後々まで続き、また多くの物語を生むことになる。
 
これも物語の形式という観点からすると、作者がすべてを見渡し三人称で書くのではなく、この奉公人に語らせることで、出来事、その空気がより臨場感あるものとなっている。しかも盲目であることから、音や触感について豊かな表現が綴られようになる。
 
これまで何度か言及している批評理論入門でも書かれているように、これはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」があの怪物、それを作ってしまった主人公に会った探検航海者が姉に向けて書いた手紙という形をとることによりより自由で豊かな表現を獲得しているのに通じるところがある。
 
文章は切れ目が少なく、改行と改行の間が数ページにゎたることもある。「春琴抄」ほどではないが句読点は少ない。文章のリズムが作者の意図通り保たれる自信があるのだろう。
 
この文庫の解説はなんと井上靖であるが(そういう時代に文庫になった)、そこで書かれているように、やはり谷崎は物語りの作家であり、その物語は女性に向かっている。




谷崎潤一郎 「吉野葛」

2021-06-20 16:03:19 | 本と雑誌
吉野葛 :谷崎潤一郎 著  新潮文庫
 
著者(1886-1965)が1931年に発表した中編。吉野を舞台にしているが、小説としてのしつらえはちょっと変わっている。
作者とおばしき者が、吉野を訪ね、静御前や南北朝時代のさまざまな出来事に由来する場所、事物などを調べていく。どうもいずれは小説の題材にするつもりのようだが、前半詳細に綴られる事象は、古典やさまざまな由来に疎い当方としては、ついていけないところもある。それでもこれはいずれなんらかの展開が出てくるための準備だろうと思って読み進め(?)ていった。
 
今回の取材旅行、実は作者の学生時代の友人である津村から誘われたものでもあった。津村は天蓋孤独に近いのだが、どうもルーツはこの辺りにあるらしく、それを訪ね確証を得たいということらしい。
 
昨年読んだ「批評理論入門」で小説における作者の位置と書き方についていろいろ学んでから、作品を読む度にそういう角度から見ていくようななっているが、この作品もなかなかユニークではある。
 
訪ねていったところからその人の過去や縁が現れてくるというのは能にもあるような気がするが、こっちの方も疎いから何とも言えない。
 
後半は友人津村のよくわからない亡き母を訪ねる話で、これはなかなか読ませ、後味もいい。
谷崎は女性の描き方がうまいし、よく理解しよりそっているところが感じられる。しかし谷崎がマザコンという感じはない。
 
ところで、訪ねていった先の地名には葛ともうひとつ国栖(これもくずと読む)があって、文中にこれは葛粉の葛とは別物と書いてある。これは不思議な話で、想像するに国栖が先にあり、川の上流が国栖で下流を葛というらしい。近くで葛が採れることから下流の方は当て字でこうなったのかとも想像する。
 
京都の和菓子屋、例えば鍵善などの葛きりは多分吉野の葛なのだと思う。一方、もう一つよく知っている産地は宝達(ほうだつ)。金沢から北に行って能登半島のつけねのあたりを少し陸に入ったところで、金沢の「森八」はここの葛である。


堀米庸三 「正統と異端」

2021-05-30 16:38:18 | 本と雑誌
正統と異端 ヨーロッパ精神の底流 : 堀米庸三 著 中公文庫(2013)(中公新書(1964))
 
上記の中公新書版は、出てそう経っていないころ読んだ記憶がある。5月8日(土)の日本経済新聞読書欄に本村凌二氏が「半歩遅れの読書術」という連載コラムで本書を取り上げているが、私とほぼ同年代のようで、同感するところが多い。といっても西洋史の専門家の氏とはことなり、当時どこまで理解していたかはおぼつかない。
 
氏が赤鉛筆でおびただしい傍線をひいたと書いているが、私も線をひいいていたと記憶する。ただ、その後新書はどこかにいってしまい、今回なんとか文庫版を手に入れて再読した。
 
話がはじまるのは、1210年あのアッシジの修道士フランシスが法王イノセント三世に会い、よく知られる清貧に徹して隣人を救うという運動に許可を求めた場面である。最高権力者とキリスト教の本質を厳しく問い詰めた修道士の対面であるから、答えは簡単ではない。
 
本書を読むと、このかなり前から教会、聖職者の腐敗が進み、これを批判し、自覚的な改宗を基本とする団体と正統カトリックの間では、洗礼や叙任などの秘蹟をめぐり、それを執行するものの人格(聖職売買、性的非行など)によって秘蹟が無効となり、やり直しが必要という主観主義と、そういう人格が執行したものであっても公式の規則によってであれば有効という客観主義の争いが長く続いていた。正統カトリックは後者である。
 
法王側は客観主義だが、教会内の腐敗とそれを追求する異端派の運動を前にして、規則と力の対立を続けるだけではいけない。その中で、イノセント三世がフランシスにある条件で布教を認め、基本的には体制内に置き、体制の体質改善と強化を図った、そのある種政治的なダイナミズムを本書で多少理解できるといったところだろうか。
 
ただ、イノセント三世までのグレゴリウス改革などの著述に数多く出てくる人物、争いなどは追いかけるのが困難で、著者には失礼だが、途中ある程度とばしてしまった。
 
本書を読んで、最近思うようになったことを多少確認した。私はいわゆる無宗教だが、宗教特に一神教を信仰するのであれば、どちらかというと上記の客観主義をとるであろう。考えに考え抜いて、また哲学など深めて信仰にいたるということもあるようだが、社会的な広がりの中で考えると、後者の方がいろんな派の相互の争い、それが激して、ということは避けられないだろう。
 
それでも世の中にはどちらかしかいないということはない以上、本書のような研究、著述が価値を持つということができる。
 
聖フランシスについて、若いころは表面的な知識やイメージだけで、それも映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972)(監督:フランコ・ゼッフィレルリ)、リストのピアノ曲くらいだった。
 
ただ1970年前後の激しい政治の季節の中で、ある程度落ち着いてものを見ることができたのには、本書をはじめとするいくつかの読書が効いていたといえるだろう。「寛容思想」にも興味を持ったと思う。
 
さて本書の著者紹介を見て、1913年生まれ、1956年じゃら東京大学文学部教授、73年退官、75年死去とあり、イメージしていたより早く亡くなっていたことに驚いた。
 
ところで、「まえがき」にこの研究・発表の経緯に「畏友丸山眞男」という記述がある。同年代であるが、この人と著者とは随分イメージがちがう。もっとも戦後のいわゆる進歩的知識人のアイドルだった丸山も、東京大学においてはアカデミズムの人を自認していたようだ。
 
ともあれ、解説で樺山紘一氏が、文庫で半世紀ぶりに再版されたことは奇跡といっているが、それは同感、後の世代の編集者に目利きがいたのだろう。


谷崎潤一郎 「春琴抄」

2021-05-10 14:50:27 | 本と雑誌
春琴抄:谷崎潤一郎 著  新潮文庫
 
昭和8年(1933)に著者(1886-1965)が発表した中編小説で、舞台は江戸末期から明治の大阪道修町。
裕福な商家の娘の琴は幼時に盲目になるが、三味線で才能を発揮、春琴と号する。この家の奉公人で春琴より年下の佐助が世話係を務めているうちに、佐助も秘密に三味線を練習し、軋轢があったが春琴が教えるようになる。
 
二人の関係、上下は絶対であり、現代ならどうかというものであるが、佐助は不満をもらさず、かといってマゾヒズムという感じでもなく(著述では)続いていくうちに、何者かに恨みをかった春琴が顔を傷つけられ、他人なかんずく佐助には見られたくないという。それをただちに理解した佐助が自分の黒目をついて盲目になり、春琴と同じ世界に入り、愛を全うする。
 
読む前に多少の紹介を知ると、たじろぐところもあったが、読後はそうでもなかった。目をつく場面は谷崎さすがの筆力かと後になって思う。実は二人の上下関係がかなり厳しい時期に、両人の間には子ができてしまい内密に養子に出され、その後も二人生まれてやはり養子となっている。このように性的関係はどうなのかと想像する前に、事実が明かされるが、物語の大筋も、場面としてもそういう叙述はなく、それを覆う芸と子弟関係、それが読む側で察する二人の間のなんらかの情愛として書き上げられている。
 
著者が書き始めで語る小説のなりたちは、「鵙屋春琴伝」という私家版小冊子が手に入り、これと春琴、佐助がなくなってから、その世話をしていた女性に聴いた話をもとにしている、ということになっている。
 
こういうしつらえと対応しているのかどうなのか、この叙述、文章は変わっていて、まず読点(、)がきわめて少なく、句点(。)も通常の文章の長めの段落相当のところにようやく出てくることが多い。それでいて読むのにとまどうところはなく、これは単語のつらなり、リズム、漢字とかなの組み合わせなど、日本語はこうも書ける、そしてよけいな間をいれない、ということなのだろうか、この小伝を一気に読ませるための。谷崎のわざというべきだろうか。