今日は教会学校のクリスマス会でした。70名近くの子供たちが集まって、祝会が行われました。子供たちは学年ごとに歌や合奏、劇、ペープサートなどをし、教師たちはスライド劇をしました。
わたしの風邪はほとんどよくなっていて、咳もすっかりおさまったので、ちゃんとセリフが言え、賛美もできました。感謝です。
ほっとして、もうクリスマスが終わってしまったような気さえします。いえ、いえこれからが本番。明日はアドベント3週目です。
9日の礼拝メッセージから、なぜ神の子どもであるイエスさまが生まれたかについて昨日の続きを書きます。
創世記12:3には神さまがアブラハムの子孫を祝福すると一方的に約束して下さっています。その後も、神さまはモーセやダビデを通して祝福を約束しましたが、人々は神から背を向けてしまいます。
神さまは、預言者の口を通して神に立ち返るように呼びかけますがだめでした。
そのようなとき、神さまはご自分のひとり子を地上におくるという計画を立てて下さいました。神が人となるというのは、人間が蟻になるようなことです。
全知全能で無限なお方が有限な者となってくださったのです。
神の子が人間の世界に来て下さったのに世は受け入れませんでした。ヨセフと身重のマリヤを迎え入れる家はなく、家畜小屋で出産することになったのです。
そこにはあたたかいベッドもふとんもなく、イエスさまはかいばおけに寝かされました。
クリスマスは、神の片思い。神の人間に対する熱烈な想いが成し遂げたできごとです。
メッセージを聞いて、神さまがご自分のひとり子、イエスを人間の赤ん坊として生まれさせて下さったことがものすごいことだと改めて感じました。神さまが人間のことを熱烈に愛していなければ、そのようなことはなさらなかったでしょう。
もしわたしが、踏みつぶされたらすぐに死んでしまうような小さな蟻になってその世界で生きなさいと命じられたらどうでしょう? しかもその世界では暖かく受け入れてもらえず、最後は死刑になるのです。でも、その蟻たちがいとおしくてたまらないから行っておくれと神さまに言われたら、「冗談じゃありません。そのような所に行きたくないです」とわたしなら答えるでしょう。
でも、イエスさまは地上に来て下さいました。赤ん坊という最も無力な存在として、最も貧しいところに来て下さいました。わたしたちの身代わりとなって十字架につけられて死ぬという使命を果たすために来て下さいました。
何という神さまの熱心! 神さまの一方的な愛!
イエスさまが生まれたわけは、神さまが一方的に熱烈に人間を愛したからです。
神さまの片思いのままで終わらせたくないです。神さまの熱烈な愛に応えていきたいです。
おわり
結城浩さん主催2007年12月1日~年12月25日のクリスマス限定企画の
「よかった探しリース」に参加させていただきました。
わたしのよかったことはこちらをご覧下さい