22日に言葉で傷ついたときのことを書きました。傷つくとはどういう時なのか考えてみました。
わたしは、デリケートで傷つきやすい性格なので可愛そうだと自分を憐れんでいました。傷ついても決して表情に出さないので(出せないのです)他の人にはわかりません。人にはわからないけれど、こんなに傷ついているのだから、どうか傷つけるような言葉を言わないで欲しいと願っていました。でも、最近傷つきやすいというわたし自身の中に問題が潜んでいることがわかってきました。
「わたしは、傷つきやすいんだからね」なんて自慢げ(?)に言うことはできないのです。
傷つける言葉を言った人が悪いとはかぎりません。全くの誤解で傷ついてしまうこともありますし、ある問題を抱えていて、それに触れるような言葉を聞いたとき、傷つくことがあります。
また、独特のしゃべり方や特徴的な声を聞くと、その人とは全く関係なく、過去の痛みを思い出すということで傷つくこともあります。
発言者にまったく非がないのに勝手に傷ついて、勝手に怒りを燃やす人もいます。
人の言葉で心が傷ついたときは、よくよく自分の心を吟味する必要があるのです。
相手が故意に悪口を言った場合は別として、傷ついたときは、傷ついた人の側に問題がなかったか冷静に考える必要があると思います。
早口のAさんが、ゆっくり話すタイプのBさんにイライラし、「あんたが話すのを聞いているとむかつく」と言ったそうです。Bさんは深く傷ついて、「どうしたらいいの?早口でしゃべる練習をした方がいいのかしら?」と相談に来ました。
わたしは、「わたしはBさんのしゃべりかたが好きですよ。Bさんと話しているとほっとします。他にもそう思っている人がいるでしょう。Bさんはそのままでいいんですよ」と言いました。
Bさんが傷つくのはもっともなことです。むかつくなんて言われたら、わたしだって動揺します。でも、客観的に考えると、むかついたのはAさんであって、すべての人ではありません。Bさんがしゃべり方を変える必要は全くないのです。
十人十色といいます。性格も、感性も、能力も……。それぞれ神さまが与えて下さったタラントがあるのです。違いを認めあって、互いに尊敬しあって、傷つける言葉の代わりにいたわりの言葉を語り、互いに愛し合うようになりたいですね。
もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Ⅰヨハネ4:12)