昨日電話で娘に「風邪ひいちゃったの」と言うと、「風邪ひいたって、流行語? 会う人、会う人が同じこと言うよ」と返事が返ってきて大笑いしました。
はやっているのは言葉じゃなくて、風邪なのです。とっくにわかっていることですが、冗談めかしていうのを聞いて、なんだか嬉しくなりました。娘の心が元気だという証拠です。
風邪による体のだるさは癒されてきましたが、まだ咳が出ます。気管支が弱いので、咳き込むと止まらなくなるのです。明日は教会学校のクリスマス会。教師の出し物としてスライド劇「三本の木」を行いますが、わたしは2番目の木のセリフを担当しています。声がかれないように日に何度もうがいしています。
クリスマスは神のひとり子、イエス・キリストの誕生日です。サンタクロースの誕生日ではありません。
なぜ神の子どもであるイエスさまが生まれたかについて9日の礼拝メッセージで語られたことを感想を交えて2回に分けて紹介します。
聖書のいちばん最初に書かれている言葉は初めに神が天と地を創造した(創世記1:1)です。1:27には神はこのように人をご自身のかたちに創造されたと書かれています。ご自身のかたちというのは、外見ではありません。神に似た性質をもつ者として人間を造られたということです。
神に似た性質とは、知、情、意をもつ。真、善、美を求める。自分の意志で生きるという性質です。
自分の意志で生きる者とされたというのはすごいことですね。でも人間は、その自由意志があるために神のいいつけにそむき、神さまから禁じられた実を食べて、エデンの園から追い出されてしまいます。その後も、人は神にそむいてばかりいます。
かつてわたしは人に自由意志を与えなければいいのにと思ったことがありました。ロボットのように心まであやつれば、神さまだって楽なのになあと……。
でも、それでは人は神さまの道具となってしまい、神様の愛の対象とはならないと聞きました。
神さまのいいつけにそむいて木の実を食べてしまったアダムとエバは、木の間に身を隠します。そのふたりに神さまの方から声をかけます。「あなたは、どこにいるのか(創世記3:9)」
人は呼びかけに答えますが、言い訳をし、他人のせいにします。
この神の方から人をもとめる。人の方は神をふり向かないという関係がずっと続きます。
聖書は、神の人間への片思いが描かれているのだそうです。
つづく
追記
一昨日の記事にたくさんの方々からのお祝いの言葉をいただき、有り難うございます。ひとりひとりにコメントできなくてごめんなさい。この場を借りて感謝の意を表します。小さき者のあかしが神さまの栄光のために用いられますように。
「心のフィルムに」の最後に、「美しい記憶」と書いているのは、「カラマーゾフの兄弟」アリョーシャのセリフからの引用です(カラマでは追憶)。去年は「カラマーゾフの兄弟」の読書ツアー(感想を9名の方とメールでやりとりしていました)に参加し、父を見舞う電車の往復で本を読んでいました。そして、父が召された後、アリョーシャのセリフを読んで大いに慰められたのです。
「百万人の福音」はいのちのことば社HPから申し込めます。