
Prague's Old Town Square in the Czech Republic
今日台所の大掃除をしました。掃除は苦手です。でも年に1回くらいは換気扇をはずして洗わなければと思います。本当は年1回ではダメなのでしょう。洗剤液に2時間つけ置いたのに汚れが取れません。再びつけてそのままにしていたら、主人が洗ってくれました。
誰に何を言われても傷つかないようになるには、どうしたらいいのですか?と質問されました。その方はクリスチャンではありません。
わたしは、聖書を読んでイエス・キリストを信じて下さいと答えましたが、それは完全な答えではありません。なぜならクリスチャンになっても人の言葉に傷つくことがあるからです。
「ことば」は生物の中で人間だけに与えられたものです。新約聖書ヨハネの福音書の最初には「初めに、ことばがあった」と書かれ、神が「ことば(Logos)」であることを示しています。
言葉は、目に見えない心の動きや感情を表現することができますから、非常に大切です。その言葉を用いて人を励まし、勇気づけることもできますが、逆に人の心を傷つけてしまうこともあります。
今まで、わたしの口から出た言葉がどれだけ多くの人を傷つけてしまったかと考えると心が痛みます。面と向かって「傷ついた」という人は少ないので、こちらが気づかないことがほとんどです。ですが、何度かはっきり言われたことがあります。
以前、友人から「あなたの言葉で傷ついた」と言われて非常にショックを受け、自分の全人格を否定されたかのように落ち込んでしまったことがあります。わたしは「傷ついた」という友人の言葉に傷ついてしまったのです。
人との交わりを一切したくないと思ったほどです。ひとりになると涙が出て、テレビで殺人のシーンを見ると、殺される人はいいなあと思うほど鬱状態になっていました。
ヘンリ・ナーウェンの本「いま、ここに生きる」(あめんどう)を読んで鬱状態から脱却しました。
わたしはアイデンティティーが確立してなかったのです。「自分は何者か」がわかっていなかったのです。
「いま、ここに生きる」には次のように書かれています。
私たちはふつう、その問い(「自分は何者か」)に対して3つの答え方をしています。(略)その答えとは「自分とは、自分の行ったことだ」「自分とは他人からどう見られているかだ」「自分とは、自分の所有しているものだ」という答えです。
言い換えれば、「自分とは成功のことだ。自分とは人気者のことだ。自分とは権力のことだ」となります。
成功、人の歓心、権力に左右される人生はもろい、と悟ることはとても大切です。
この3つはいずれも、自分でコントロールすることが困難な外的要因だからです。(略)
イエスは成功、人の歓心、権力に基づいた自己は、偽りの自己であり、幻想だと伝えるために、この世に来て下さいました。大声ではっきりとイエスはこう語られました。「この世が与えるあなたの姿は本物ではありません。あなたの真の姿は、あなたが神の子どもだということにあります」
神の子とはどういうことなのでしょう。両親がいるのになぜ神の子なのだろう?と思われる方もいるでしょう。クリスチャンは神さまのことを天のお父様と呼びますが、創造者である真の父親が神さまなので、人間はみな神の子といえるのです。
イエスさまがヨハネから洗礼を受けたとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)という神さまの声が聞こえてきました。
神さまに愛されている子としてイエスさまがこの世に遣わされたことを意味しますが、同時にイエスさまを通してすべての人が神さまに愛されているということを示しています。
つまり、どんな過ちを犯しても、人から何を言われようとも、神さまから愛される価値がある人間なのです。何があってもその価値は変わらないのです。
このことがわかってから、言葉にそれほど傷つかなくなりました。
聖書の言葉
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書43:4)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ31:3)
ところが、朝のデボーションの時に聖書を読んでいて、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12・36)という言葉ににはっとさせられました。
わたしにいやなことを言ったその人は、もう忘れてしまっているかもしれないのに、裁きの日にその人がそのことで裁かれるのです。
そう、思ったら、相手の人が気の毒に思えるようになってきたのです。
わたしが、余計なことを言ったばかりに、その人が裁かれる。わたしはその人が裁かれる原因をつくったのかもしれないのだと思うと、その人をにくむどころか、なんだか申し訳ないように思うようになってきた
のでした。
ピントはずれかもわかりませんが…。
言葉で人を傷つけても、悔い改めれば神さまは赦してくださいますね。
この痛い経験のことを今まで何度か書こうとしましたが、書けませんでした。
いま、やっと書けるようになりました。神さまの愛によって傷がすっかり癒されたからです。