一昨日、病院の待合室で星野富弘さんの「愛、深き淵より」(学習研究社)を読みました。3時間も待たされたので、ほとんど読んでしまいました。以前読んだことがあったのですが、新版が出たので父にプレゼントしようと思って買って家に置いていたのを持っていったのです。
改めて読んで気づいたことは、手足が動かなくなってから、筆をくわえて詩画を描くようになられるまで2年半もあったということです。怪我をされた直後は、呼吸確保もむずかしいほど命の危険にさらされ、危機が過ぎると四肢が動かないことへの苦悩、絶望、あせり……。
2年半といっても、身体的苦痛を伴う時間は5分が何時間にも感じられますし、ただベッドで横になっているだけの時間は、元気な人の数倍の時間に感じられたことでしょう。とほうもなく長い時間の末、筆をくわえて描けるということがわかり、生きる喜びを見いだしていきます。
でも、この2年半という苦しい時間があったからこそ、人を感動させるような詩画が描けるのだなあと思います。
成果にこそ価値があると考えている人が多く、何をなし得たかということで人の価値が決まってしまうような世の中です。病気や怪我をして何もできない日々を過ごしていると、自分が価値のないものに思われ、あせる気持ちが起きてきます。でも、何もできないときこそ価値のある時間なのではないでしょうか。
23日に「共鳴箱」を書いたあと、無性に書きたくなってはりきっていました。ところが、急に具合が悪くなって、出鼻をくじかれたようになってしまいました。自分の力で、「書くのだ!」と力んでいたわたしに、神様は「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である(出エジプト記3-5)」と言われたような気がします。
富弘さんが「花に描かせてもらおう」と謙虚な気持ちになられたように、わたしも謙虚な気持ちで『神さまに書かせてもらおう』と思いました。