静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年02月15日 | 説教要約
 「わたしが神に祈るのは」(使徒行伝26章24~32節)

 「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけではなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみなわたしのようになって下さることです。」(29)

 ローマの総督がフェストに交代し、パウロはカイサルに上訴いたします。そんな時にヘロデ・アグリッパ王二世の前で、パウロは自らの救いの証しを含めて、福音を語ります。

Ⅰ 福音を語る備え
 パウロは、いついかなる時も、誰の前であっても、総督や議会、そして王の前であっても、いつも福音を語る準備をしていました。まさしく、ギデオンの300人のように、備えていたのです。そして、自らの救いの証を、救われる前、救われた時、救われた後と3ポイントに明快に語っています。

Ⅱ 祈りによる宣教
 福音を語られる時、それに聞く者は御言葉に迫られ、決断を求められます。アグリッパ王は、この救いの時、決断を避けることによって、逃してしまいました。残念なことです。
 一方パウロの祈りの中での願いは、上記の御言葉にあるように、自らの解放ではなく、福音を伝え一人でも多くの者がイエスによって救われるようにとの使命を果たすことでした。


 私たちの祈り、願いは何でありますでしょうか。己のことでしょうか? パウロのようにいつも救霊のために祈り、いつでも福音を語れる備えをさせていただきましょう。神は備えている者に必ずチャンスを与えてくださるからです。

2015/2/15 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年02月15日 | 天のマナ
 「神の栄光があらわれる」

 先週の祈祷会の恵みの分かち合いにて、二人の姉妹が異教の葬儀において、クリスチャンとして行動する苦労を話されました。異教の地である日本、神はそこにクリスチャンである私たちを置かれ生かしています。私たちは、この世にてどのように行動をすればよいのか葛藤をいたします。
 以前にも記させていただきましたが、クリスチャンが行動する基準は、「神の栄光があらわされる」です。それをすることで神の栄光をあらされるのか、否かで判断するということです。神の栄光があらわされるならするし、そうでないならばしないです。
 この基準を土台に、さまざまな状況の中で、あとはそれぞれの信仰の判断に任されています。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第一の手紙10章31節)

2015/2/15
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