「神の栄光があらわれる」
先週の祈祷会の恵みの分かち合いにて、二人の姉妹が異教の葬儀において、クリスチャンとして行動する苦労を話されました。異教の地である日本、神はそこにクリスチャンである私たちを置かれ生かしています。私たちは、この世にてどのように行動をすればよいのか葛藤をいたします。
以前にも記させていただきましたが、クリスチャンが行動する基準は、「神の栄光があらわされる」です。それをすることで神の栄光をあらされるのか、否かで判断するということです。神の栄光があらわされるならするし、そうでないならばしないです。
この基準を土台に、さまざまな状況の中で、あとはそれぞれの信仰の判断に任されています。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第一の手紙10章31節)
2015/2/15
先週の祈祷会の恵みの分かち合いにて、二人の姉妹が異教の葬儀において、クリスチャンとして行動する苦労を話されました。異教の地である日本、神はそこにクリスチャンである私たちを置かれ生かしています。私たちは、この世にてどのように行動をすればよいのか葛藤をいたします。
以前にも記させていただきましたが、クリスチャンが行動する基準は、「神の栄光があらわされる」です。それをすることで神の栄光をあらされるのか、否かで判断するということです。神の栄光があらわされるならするし、そうでないならばしないです。
この基準を土台に、さまざまな状況の中で、あとはそれぞれの信仰の判断に任されています。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第一の手紙10章31節)
2015/2/15