静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年11月09日 | 説教要約
「神の前に罪人なるあなたを執り成すキリスト」(詩篇106篇19~23節)

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」(23)

 105篇は、イスラエル(神の民)の歴史を振り返り契約に真実な神を賛美してます。106篇もその歴史を振り返り、今度は、神の民の不誠実さを告白している詩であり、契約に不真実な民をも憐み守られる神を賛美しています。

Ⅰ 神の民の罪
 出エジプトから約束の地の定住に至るまでの神の民の歴史が記され、その中での神の民の不誠実な罪が示されています。つぶやき、逆らい、偶像礼拝、不従順などの罪であります。神の救いと助けの中にありながらも、これほどまでに不誠実な民は、すべて滅ぼされても仕方がないのに、神は完全には滅ぼさないのです。それはなぜでしょうか。

Ⅱ 罪なる神の民をとりなす方 
 23節にモーセのとりなし、30節にはピネハスの仲裁という二人の神の器が立てられ、神の民をとりなしています。モーセは、アブラハムに与えられた神の恵みの契約を持ち出して祈り、また時には自分を神の書から取り除いてもかまいませんと、そこまでしてとりなしています。これらのことにより神はあわれみを神の民に垂れたのです。
 6節には、この詩人は先祖の罪を指摘するだけではなく、自分たちも先祖と同じく罪を犯したと告白しています。これは、現代の私たちにも言えることであります。自らの人生の歴史をたどる時に、イスラエルの民と同じ罪を重ねてきています。全く滅ぼされても仕方がない私たちなのに、神の憐れみを受け赦されているのです。それは、モーセのゆえでも、ピネハスのゆえでもなく、御子イエス。キリストのとりなしのゆえであり、聖霊なる神のとりなしのゆえであります。「父よ、彼らをお赦し下さい」との十字架での祈りを今もイエスは、父なる神の右の座で祈って下さっているからです。聖霊なる神も、私たちの内でうめくようにして祈って下さっているからです。

 神に対して誠実な歩みをいたしましょう。また、私たちも隣人に対して神にとりなす者とされましょう。

2014/11/9 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年11月09日 | 天のマナ
 「神の愛に支えられる人の愛」  「神は愛である」(Ⅰヨハネ4章8節)

 夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友愛、師弟愛、隣人愛など、多くの愛を私たちは与え受け、経験いたします。「愛とは何か」と問われた時、あなたはなんとお答えになるでしょうか。ある人は、「愛は感情である」と言うでしょうし、また別の人は、「愛は意志である」と答えるでしょう。「愛は感情であり意志である」という答えもあります。また別の角度から見ると、「恋は自己満足であり、愛は自己犠牲である」とも言われます。いずれにしても自分の力では、感情は冷めてしまい意志は折れてしまい継続が困難であることを、誰でも経験していることではないでしょうか。人は、神から離れ自己中心となり罪の中を歩んでいます。真実の愛を取り戻すためには、感情と意志、私たちのすべてが神に立ち帰り、神にきよめられて、神の愛によって支えられていかなければ、継続は無理なのであります。だから、結婚式では、結婚式の中心である神の前に愛を誓い合うと共に、神の祝福の宣言を受けるのです。

2014/11/9
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講壇の花

2014年11月09日 | 生花
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