静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2013年06月23日 | 天のマナ

 「主イエスがそこにおられる」

 先日、ある姉が入院している病院に、8名で訪問してきました。ベットを取り囲むようにして座り、聖歌を賛美して祈り、み言葉を読み短くメッセージをし、その姉妹にお祈りしていただき、最後に一人一人が彼女の耳元でお祈りをいたしました。その彼女は、「教会堂での礼拝に来たみたいだ」と嬉しそうに何度も言われていました。まさしく、主イエスがここに臨在され、主に拝した時でした。肉体はだんだん弱くなってきていますが、魂は神に満たされ平安でありました。「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(Ⅱコリント4:16,17)。

 「病気のときに見舞い」(マタイ25:36)と言われた主イエスは、病いの者を見舞うことを喜び、それは「わたしにしたのである」と続けています。それぞれ与えられた時に、訪問をさせていただきましょう。そこで主イエスを共に仰ぎ、主イエスにあわせていただきましょう。

2013/6/23

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主日礼拝説教要約

2013年06月23日 | 説教要約

「正しき者と悪しき者」 詩篇75篇1~10節

Ⅰ 助けは天の神より

 国家存亡の時、アッスリアの大軍によってエルサレムが包囲された時(列王記下18~19章)の詩であろうと言われています。「どこから助けが来るのであろう」と神の民は思いました。東のモアブか、西のペリシテか、南の荒野のエジプトか、いいえ助けは上(天)から来るのです。

Ⅱ 天よりの助け

 神の助けの時は、神の最善の時であり定まっています。人は時々間違いをいたします。神の時に自らをあわせゆだねるのが本来であるのに、人は、「神様何をしているのですか、遅いではないですか」と自分の時に神の時をあわせようとするのです。主権はどちらでしょうか?神は最善の時を定めています。まさにその時、神は、自らに逆らい高慢なアッスリアを主の使いによって滅ぼしたのです。

 神は正しい者(神との関係がまっすぐな者)を神の最善の時に必ず救わい勝利をもたらせるのです。「それはさばきを行われる神であって、神はこれを下げ、かれを上げられる。」(詩篇75篇7節)

2013/6/23 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2013年06月23日 | 生花
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