静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年06月03日 | 説教要約

「神の国の恵み」 マタイによる福音書20章1~16節

 主イエスの「天国のたとえ」の中のぶどう園の主人から、み言葉を共にいただきましょう。

 この世の価値観によるならば、この主人は早朝から働いた人から順に、働きに応じて報酬を与えるものであります。早朝から働いた人が10時間で1デナリならば、9時から人は7時間分の賃金、12時からの人は5時間分、3時からの人は3時間分、5時からの人は1時間分となります。しかし、主なる神の天国は違います。主なる神の天国の価値によるならば、それは功績によって計られるのではなく、神の恵みとあわれみによって計られるのであります。神の恵みとあわれみによると功績に関係なく、雇われたすべての人に同じ祝福が与えられるほど、神の恵みとあわれみは溢れているのです。

 私達は、早朝組ととらえることもでき、5時組ととらえることもできます。いずれにせよ、主の恵みとあわれみは溢れていて、雇われた(救われた)わたしたちの上に豊かにあるのです。主を見上げ、救われた喜びをもって歩んでいきましょう。「わたしは、この最後のあなたと同様に払ってやりたいのだ」(14)

2012.6.3 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年06月03日 | 天のマナ

 「恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)

 聖書を読み、お祈りをし、礼拝をささげ、クリスチャンの歩みが深くされていけばいくほど、気がつかされることがあります。それは、「自分の罪深さであり、主の恵みの深さ」であります。この気付きはクリスチャンとして健全な姿であります。クリスチャンになる前は、神から離れ自己中心のままに歩み、思いおいて言葉において行為において罪を犯してきたにもかかわらず、自分が罪人であることさえもわかりませんでした。しかし、聖霊なる神によって罪を示され、神の独り子なるイエスが救い主であり、イエスの十字架と復活によって、罪赦され義とされることがわかり、信仰と悔い改めによってこの救い(罪が赦され義とされること)を体験させていただいたのです。そして聖書を読み、祈り、礼拝をささげるクリスチャンの歩みを続けていくうちにその体験がどんなに深いことなのか理解されていくのです。「ああ、なんとわたしは罪深いのか」「ああ、こんな罪深いわたしが赦されているなんて」「義とされ神の子とされ永遠のいのちをいただいているなんて、神のお恵み以外にないと」。へりくだる者となるのです。

2012/6/3

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講壇の花

2012年06月03日 | 生花
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