静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2011年07月10日 | 天のマナ

「ウエルカム(歓迎)する思い」 「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。」

  

 先日の早天祈祷会で使徒行伝10章15節のコルネリオの箇所より恵みを受けました。

主なる神様は、福音をユダヤ人から異邦人へ、全世界の人へ広げられます。その時に用

いられたのが、ペテロと異邦人コルネリオでありました。コルネリオは、神に導かれペテロを

迎え福音を聞くことに従い、主の幻を見たペテロは、異邦人への偏見を捨て、コルネリオに

福音を語りました。主イエスは、地の果てまで福音を伝えよと命じられましたが、この偏見が

除かれずして伝道はできません。

 私たちはどうでしょうか?クリスチャンの交わりの温かさに閉じこもっていては、伝道は進ま

ないのではないでしょうか。

 礼拝の前後、主イエスが送って下さった新来会者や求道者の方をウエルカム(歓迎)して

交わりに積極的に入って、いただけるようにしていきたいのです。

 

2011/7/10

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講壇の花

2011年07月10日 | 生花
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天のマナ

2011年07月03日 | 天のマナ

「信仰のあるところに」  

  

 主イエスは、今、私たち一人一人に、また共同体である静岡教会に、主の御わざをした

くて仕方がありません。しかし、主イエスは、信仰がないところには、御わざをしたくてもされ

ないのです。主イエスが、自らの郷里に帰って神の国を語った時に次の言葉を述べました。

「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなされなかった。」(マタイ13

章58節)。

 私たち一人一人の信仰はいかがでしょうか?また共同体である静岡教会はいか

がでしょうか?この課題に対しては信仰が持てるが、これはちょっと無理だろうと、個々の課

題に対して主の御力を区別して捉えていないでしょうか。どんな課題に対しても、信じる者は

なんでも主にあってできるという者であり、信仰をどんな時もあらわし、主のわざを信仰生活

において体験させていただきたいのであります。主の御わざを体験できるか、できないかは

 主の方ではなく私たちの信仰が問われているのです。

 

2011/7/3

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講壇の花

2011年07月03日 | 生花
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