「神を信じ従う幸い」 マタイによる福音書5章1~3節
カペナウムを中心に初期活動をされた救い主イエスの山上の説教から、主の恵みをいただきましょう。
Ⅰ 幸いな者の条件
私達、人は「幸い」を求めています。「本当の幸い」とは、例え病いの中にあったとしても、貧しくあったとしても、どんな状況や境遇にあっても、そういうものに左右されず、平安をもっていることではないでしょうか。では、その幸いは何によって得られるのでしょうか。財や地位、名誉や知識は大切なものですが、そういうものは一時的で変わり易く、私達の心に常に平安をもたらしません。
ここでの幸いな者の条件は、「心の貧しき者」であります。この「貧しき」は「極貧」をあらわす言葉です。つまり、自分には自分をも隣人をも満たすものが何もない、神のお恵みをいただなければ一日たりともやっていけないと言う、自分の心の貧しさを認めている者です。主イエスは、そういう者こそ幸いだと言っています。
Ⅱ 幸いな者の理由
なぜでしょうか。それはまず、自分の心の貧しさに気がついている者は、神を求めるからです。そして、神に出会うからです。神は求めてくるものに必ずお会いになります。
次に、神と出会う時に、神の国(神の愛と恵みの支配)がその人のうちに訪れるからです。神と命の関係にあり、神から愛と恵みがその人のうちに流れ込むのです。ですから、どんな境遇にあっても平安を持ち、幸いな者となるのです。
自分の心の極貧さを認め、毎日、主なる神につながりましょう。
2009/8/30 説教者 杉本守
カペナウムを中心に初期活動をされた救い主イエスの山上の説教から、主の恵みをいただきましょう。
Ⅰ 幸いな者の条件
私達、人は「幸い」を求めています。「本当の幸い」とは、例え病いの中にあったとしても、貧しくあったとしても、どんな状況や境遇にあっても、そういうものに左右されず、平安をもっていることではないでしょうか。では、その幸いは何によって得られるのでしょうか。財や地位、名誉や知識は大切なものですが、そういうものは一時的で変わり易く、私達の心に常に平安をもたらしません。
ここでの幸いな者の条件は、「心の貧しき者」であります。この「貧しき」は「極貧」をあらわす言葉です。つまり、自分には自分をも隣人をも満たすものが何もない、神のお恵みをいただなければ一日たりともやっていけないと言う、自分の心の貧しさを認めている者です。主イエスは、そういう者こそ幸いだと言っています。
Ⅱ 幸いな者の理由
なぜでしょうか。それはまず、自分の心の貧しさに気がついている者は、神を求めるからです。そして、神に出会うからです。神は求めてくるものに必ずお会いになります。
次に、神と出会う時に、神の国(神の愛と恵みの支配)がその人のうちに訪れるからです。神と命の関係にあり、神から愛と恵みがその人のうちに流れ込むのです。ですから、どんな境遇にあっても平安を持ち、幸いな者となるのです。
自分の心の極貧さを認め、毎日、主なる神につながりましょう。
2009/8/30 説教者 杉本守