Ⅱ 障害とは何か
第三章 障害とは何か
一節 障害の反転と異化―認識論的なところからの論考
(イ)障害の反転:例として、ろう者―手話、視覚障害者こそが、ひとをみる(とらえる)ことができる、車椅子使用者が福祉のまちづくりへの提言ができる、自閉症を文化の違いとしてとらえ、子どもから何がひとにとって必要なのかを教えられたなど、「障害者」が障害差別の中で、ときおり反転させていることの中に、反転しえる社会の可能性を示しえるのではないか、と著者は提起する。(オルタナティブの可能性)
(ロ)「障害」の異化:障害とは、「標準的人間労働」という物象化された資本主義社会における労働のあり方に規定される。また、「身辺自立」という資本主義の成立の中で起きた近代的個我の論理からきている。(反資本主義社会の視座)
(ハ)「障害」の異化の根拠と歴史:認識論的なとらえ返しとしては、「異化」→「同一性」→「相違」と概念化が起きる。例としては、「健常者」という言葉は「障害者」という言葉より先には生まれない。
二節 障害の異化における土台としての「できるーできない」という問題
なぜ「できないこと」が問題なのか。どのような「できない」が問題になるのか。なぜ、自分の身の周りのことが自分でできるということが必要なのか。
補節一 「障害者」にとっての「労働」
補説二 障害はどこにあるのーある絵本との出会いの中からー
「こころは、自分と周りにいる人やものとの間にある」→「ふたつのできないことの出会いで障害がおきる」
間主観性は、「今、ここで」(臨床)、間に、間主観的に起きていること。相互主観性は、そこでの意思の働きかけあいのことで、共同主観性に規定される。
臨床をやっている人たちは、「今、ここで」ということを関係性から切断してとりあげ、その場を規定している共同主観性を捨象してしまう。
障害は、間主観性だけではない、共同主観性にある。
私にとってその書籍の良し悪しの判断基準は、資本主義社会に対するオルタナティブの可能性、反資本主義の視座を持っているかどうかです。ここまで、本書は、それを感じさせるものがあり、もう少し読み進むこととする。
第三章 障害とは何か
一節 障害の反転と異化―認識論的なところからの論考
(イ)障害の反転:例として、ろう者―手話、視覚障害者こそが、ひとをみる(とらえる)ことができる、車椅子使用者が福祉のまちづくりへの提言ができる、自閉症を文化の違いとしてとらえ、子どもから何がひとにとって必要なのかを教えられたなど、「障害者」が障害差別の中で、ときおり反転させていることの中に、反転しえる社会の可能性を示しえるのではないか、と著者は提起する。(オルタナティブの可能性)
(ロ)「障害」の異化:障害とは、「標準的人間労働」という物象化された資本主義社会における労働のあり方に規定される。また、「身辺自立」という資本主義の成立の中で起きた近代的個我の論理からきている。(反資本主義社会の視座)
(ハ)「障害」の異化の根拠と歴史:認識論的なとらえ返しとしては、「異化」→「同一性」→「相違」と概念化が起きる。例としては、「健常者」という言葉は「障害者」という言葉より先には生まれない。
二節 障害の異化における土台としての「できるーできない」という問題
なぜ「できないこと」が問題なのか。どのような「できない」が問題になるのか。なぜ、自分の身の周りのことが自分でできるということが必要なのか。
補節一 「障害者」にとっての「労働」
補説二 障害はどこにあるのーある絵本との出会いの中からー
「こころは、自分と周りにいる人やものとの間にある」→「ふたつのできないことの出会いで障害がおきる」
間主観性は、「今、ここで」(臨床)、間に、間主観的に起きていること。相互主観性は、そこでの意思の働きかけあいのことで、共同主観性に規定される。
臨床をやっている人たちは、「今、ここで」ということを関係性から切断してとりあげ、その場を規定している共同主観性を捨象してしまう。
障害は、間主観性だけではない、共同主観性にある。
私にとってその書籍の良し悪しの判断基準は、資本主義社会に対するオルタナティブの可能性、反資本主義の視座を持っているかどうかです。ここまで、本書は、それを感じさせるものがあり、もう少し読み進むこととする。
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