書評 ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄 13,000年にわたる人類史の謎 上・下巻』 (草思社文庫 2012年)
「南北アメリカ大陸の先住民が、なぜ旧大陸の住民に征服されたのか。なぜ、その逆は起こらなかったのか?」また、「なぜ世界の富や権力は、現在あるような格差を生み出してしまったのか?」と、問いかけるところから本書の議論は始まる。「なぜ、○○は○○なのか?」という問いが何度も何度も出てくる。こうなった「直接の要因」は何だったのか。それをさらに突き詰めた「究極の要因」は何だったのかと掘り下げが進む。そして最後に読者を驚きの結論に導く。
本書を読みながら、僕は子供の頃に友だちと一緒に家の近くの原っぱで枯草や木の枝を使って秘密基地づくりをして遊んだことを思い出した。そこら中に様々な植物が生えていたが、口にできたのは、グスベリ、アカツメクサ、バライチゴだけだった。ハマナスやナナカマドの実は色鮮やかだったが渋くて食べることはできなかった。海でアブラコやカジカを釣った。僕は、野山を駆け、崖の登り降りは速かったが、木登りは不得意で泳ぐこともできなかった。それは僕の生まれ育った地域の「環境」が理由だ。道東の釧路は、夏に海霧がかかり気候が冷涼のため、大きな樹木が育たず、海水温も低過ぎて水に入ることができなかった。毎日、僕らは炭鉱のズリ山の向こうに陽が沈むまで「狩猟採集生活」を楽しんだ。
自然の中で過ごすことが中心の生活だったが、年齢が進むにつれて学校生活の比重が増してきて、時間や規則を守ることなど、社会で生きていくために必要なルールを教え込まれた。やがて僕は受験競争という制度に飲みこまれた。
原著は1997年に発刊され、翌年度のピュリッツァー賞を受賞している。日本語版は2000年に刊行され、朝日新聞が2010年に行った「ゼロ年代の50冊」という企画で、2000年から2009年までの10年間に出版された書籍の中でベスト1に選ばれている。
著者のジャレド・ダイヤモンドは、1937年生まれの生理学者、進化生物学者、生物地理学者だ。本書は人類の歴史の深層を描いている人文科学系の本だが、取り上げるエピソード、添付された詳細なデータ、その分析手法からは、理科系のテイストが漂う。理系出身者にとっても観念的な議論に陥る記述が少なく、とても読みやすい本だと感じた。
本題に戻る。「なぜ、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、オーストラリア大陸のアボリジニなど世界各地の狩猟採集民族が、ヨーロッパ人に飲みこまれてしまったのか?」。それが最も劇的に明らかになった瞬間は、1532年11月16日にスペインの征服者ピサロとインカ皇帝アタワルパの出会いとピサロの圧倒的な勝利だ。1,500年の時点で、すでに各大陸間には大きな力の差が生じていた。著者は、ヨーロッパ人がアメリカ先住民を征服できた「直接の要因」は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬を駆使する軍事技術、ユーラシア大陸起源の風土病や伝染病に対する免疫の獲得、ヨーロッパで発達した航海技術、ヨーロッパ国家の政治機構、そして情報を正確に伝えることのできる文字を持っていたことにあるという。本書のタイトル『銃・病原菌・鉄』は、これらを凝縮して表現したものだ。
では、「直接の要因」である「『銃・病原菌・鉄』を、なぜヨーロッパ人が最初に手にすることができたのだろうか?」。著者はこの分析のスタートポイントを今から13,000年前に置く。人類がその誕生の地であるアフリカを出発して、シベリア、ベーリング海峡、アラスカを経由して、南アメリカ大陸の先端まで到達したのが13,000年前だ。この時点における人類はみな狩猟採集生活を送っていたため格差が生じていなかったからだ。
さらに、「なぜ13,000年前以降、それぞれの大陸において人類は異なる経験をたどったのだろうか?」、また「「直接の要因」を生じさせた「究極の要因」は何だろうか?」と、探究を深める。著者が最重要と指摘した要因は、野生植物の栽培化と大型動物の家畜化による「食料生産」の開始だ。それが一番早かったのは11,000年前のユーラシア大陸である。メソポタミアの肥沃三日月地帯で植物を栽培し、野生動物を家畜として飼いならす人びとが現れた。その結果、食料生産量が増し余剰食料の蓄積ができるようになった。人口が増え、生産に携わらなくてもいい書記や発明家、政治家、首長、王、官僚などを社会として養うゆとりが生み出された。稠密な人間集団が誕生し、定住的で集権的な社会が誕生した。さらに社会が階層化され、複雑な統治機構の形成と技術革新が進んだ。
ここまでの分析で「食料生産」が社会を大きく変えた要因であるということがわかった。だが、著者は「食料生産を可能にした「究極の要因」は何か?」とさらに問う。そして辿りついた答えが「環境」と「偶然」なのである。
ずばり結論を述べてしまうと「究極の要因」は、各大陸の形状の違いだ。この視点はユニークだ。頭の中に世界地図を思い浮かべてみてほしい。それぞれの大陸が南北方向または東西方向のどちらに伸びている陸塊であるかが決定的に重要なのだ。南北アメリカ大陸、アフリカ大陸は南北方向に長く、いずれも赤道が中心部を走っている。この場合、赤道付近の熱帯地域の気候がその周辺地域と大きく異なるため、動植物の生育環境にとっては超え難い障壁となっている。一方、ユーラシア大陸は東西に長い形状のため、緯度を同じくする地域では、日照時間の変化や季節の移り変わりのタイミングに大きな差がない。また、気温や降雨量の変化、分布する植物の種類などもよく似たパターンを示す。このことは食料生産や技術の伝播にとっても有利にはたらく。「食料生産」を可能にした要因はユーラシア大陸の「環境」だったのだ。
僕は、地理の教科書を思い出した。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸はもともとゴンドワナ大陸というひとかたまりの陸塊だったといわれている。それが長い地球の歴史の中で分割されて現在の各大陸の形と配置になった。このことも人類が関与できない「偶然」の結果だと思った。
さらに「偶然」がある。「食料生産」の開始が現在につながる変化の始まりである。それをいち早く一歩前に進めることのできたユーラシア大陸には、栽培化可能な植物の野生種が他の大陸に比べて数多く植生していた。また、家畜化できる可能性のある大型の陸生哺乳類もいちばん多く生息していた。これも「偶然」だ。
本書において著者は、ユーラシア大陸の人びとが各大陸の先住民を征服できたこと、さらに大陸間における格差が生じたことの要因が、「人種」の違いによるものだという、人間の能力に優劣があるとするような考え方を排し、人びとの置かれた「環境」の違いが原因であるという。これは、差別なき社会を理想とする考え方につながるものだと思う。そして、この「環境」の違いも「偶然」の産物であり、人類の歴史は発展段階説のような「必然」性に従って進むのではなく、「偶然」の積み重ねによるものだという。本書は、歴史に必然性はあるのか、否かという議論に対するひとつの答えだと考える。
今、僕は家庭菜園を作っている。中南米原産のミニトマト、ズッキーニ、インゲンマメ、トウガラシ、パプリカと中国の西部に原産地のある九条ネギ、そして国内で品種改良された小松菜、万願寺トウガラシを育てている。我が家の食料自給率の数パーセントを担うことができる「農耕生活」をしている。だが、主食の大部分であるコメ、小麦、肉などの原産地はユーラシア大陸だ。最後に、本書が静かに問いかけてくる。このアジアの片隅で、あなたは、あなたに続く世代の人たちは、これからどうやって生きていくのだろうかと。 (3091字)
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