チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

「旅立ちし母」 思い出とともに

2012-08-10 01:10:01 | 身辺雑記
8月10日(金)


  実は、先般、母が亡くなり、見送りを済ませました。


 3月の半ば、今年はまだ梅の花の残る遅い春でした。5月に91歳になろうとしていた母が体調を崩して入院という知らせが舞い込み、しばしKAZU君と別れて、春まだ寒き明石から、スギ花粉の舞う東京の病院へ向かいました。

 「肺に水が溜まって危険な状態。月を越えれば、よく持ちこたえたというところですね。関係の方には連絡を取っておいたほうが・・・」という医師のことば。
 さらに、「病院でなくても、酸素吸入と点滴はできるので、ご家族で看取って差し上げるのがよいのでは」というアドバイスも。

 医師の指示に従い、十日ほどで退院したところ一時回復。しかし、4月半ばに再入院ということになりました。

 初めのうちは、せめて桜の花の咲くまではと励ましていましたが、再入院後、新緑の季節も流れるように過ぎ、梅雨の季節も通り越して、気がつくと夏の盛りになっていました。

 3月半ば以来、ブログには、何げに明石の話題も載せてきましたが、実は、明石での時間は最小限にとどめて、逗子の家からの東京通いの日々が続いていたのです。

 その間、4月の末には、二人目の孫、母にとっては六人目の曾孫となるKANA君の誕生という明るい出来ごともありました。しかし、さすがに、その顔を見て喜ぶという状態にはなく、対面することはありませんでした。

 そして・・・、梅雨も明け、真夏の日差しが照りつける暑い季節を迎えて半月余り経った7月末日の未明、静かに息を引きとり、50年も前に先立った父の許へと旅立って行きました。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦時下に父と結婚し、東京大空襲では、二週間後に生まれた姉をお腹の中に抱えて、炎の中何時間も三月の冷たい池の水に浸かり、さながら地獄絵図の中をかろうじてくぐり抜けたということで、その話が今も耳に焼きついています。
 その後、戦後期の復興に、父とともに全力で立ち向かっていたのですが、そのさなか、私が小学校6年生だった冬に、40歳にして夫に先立たれてしまいました。しかし、悲しみに打ちひしがれている暇もなく、身を粉にして、姉と兄と私の三人の子を育て上げました。
 やがて、父の跡を兄が受け継ぐに至り、海外旅行に出かける余裕もでき、7人の孫に囲まれて平成という時代を迎えたのでした。

 振り返ると、まさに、激動の昭和という時代の中を、幾多の苦難を乗り越え、特に父の死後は、男社会を向こうに回して、細腕一つで、したたかに生き抜いてきた、波瀾万丈の人生と言えるのかもしれません。


 病いに伏した後、点滴と酸素吸入だけの状況でしたが、しばらく容体が安定。担当の医師もことばに困るという感じで、4か月半もの間、気丈に生きてきました。その姿からは、大正に生まれ、激動の昭和を乗り越えてきた人間の意地のようなものを見せつけられた感がしました。

 そんな生きざまを見せてくれた母ですが、数年前から認知症が進んでいて、はたして、最期に自分史をどのくらい記憶に残していたのかどうかは定かではありません。
 とはいえ、病床に伏していても、意識ははっきりとしていたので、身体的な苦痛がないようにということがとても気になって、何回か、そのことを医師に問いかけてきました。
 「苦しそうには見えないし、おそらく最後は徐々に意識が薄れて行くので大丈夫でしょう」ということばがありましたが、見た目にも、顔をゆがめることもなく静かに息を引きとったように映ったのが救いでした。


 安らかに目を閉じている母の顔を数日間見守った後、おかげさまで、通夜・葬儀をとどこおりなく済ませ、今、一段落して静かに母の思い出に浸っているところです。心配の旨、連絡をいただいた方を含め、母のことを気にかけていただいた皆様、ほんとうにありがとうございました。


   逝きし母のレクイエムにや蝉時雨  弁人


 三月。一度退院した時に、「音楽でも聴こうか、何がいい?」と言ったら、「オーケストラの少女!」と言った母。

 四月。「向島の百花園に行ってきた」と言ったら、「もう一度行きたい、連れてってくれる?」と言った母。

 五月。私が明石にいることを覚えていたのか、はたまた逗子が遠いと思ったのか、「遠くから来てくれてありがとう」と言ってくれた母。

 六月。「ごめん、ちょっと神戸のほうへ旅行に行ってくるから」と言ったら、「早く帰ってきて」と言ってくれた母。

 七月。朝顔市で授かった朝顔のお守りを見て、「きれいね」と、うれしそうに眺めた母。

 そして、息を引き取る三日前の夜、「わかる?」という問いかけに、しっかりと頷いてくれたのが最後のやりとりになりました。

 年老いてから、すかっり優しい母になっていましたが、病いに伏したこの春からのわずかな時間に、忘れられない新しい思い出をいくつも残して旅立って行きました。


 さて、これからですが、今月中に納骨を済ませます。その後、気持ちが落ち着いてから、また明石でKAZU君といっぱい遊びたいと思っています。


コメント (2)
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