9月30日(木)
まったく皮肉なことに、政治家が「総裁選だ」「総選挙だ」とうわの空になっているのが功を奏しているかのように、コロナの新規感染者数が激減して、首都圏の「緊急事態宣言」も今日までで解除とか。
おそらく、宣言が解除されれば、「人流」とかが再び盛んになるでしょうし、旅行に出る人も増えるはず。それに伴ってまた感染拡大して「第6派」とかがやって来るのかもしれません。
とか考えると、不謹慎かもしれませんが、宣言が解除される前の閑散としている今が「チャンスかもしれない、ちょっと一回出かけてみようか」ということで一泊の小旅行へ。目的は、「乗ってみたい電車」と「行ってみたい温泉」ということにして。
最初の「乗ってみたい電車」は中央本線特急の
「E353系」
新宿から松本行きの「あずさ」、甲府行きの「かいじ」の車両ですが、今は富士急行直通の特急や「はちおうじ」「おうめ」とかいう比較的近場の特急にも使われているようです。
3年前の夏、逗子駅に総合車両製作所からの甲種輸送の新車が停まっていて、「今度乗ろう」と思い、その秋、信濃大町から入る黒部アルペンルートの旅を計画したところ、新幹線の長野からのバスのほうが便利だということで乗れませんでした。
今回は甲府までなので「かいじ」でいいのですが、八王子からノンストップで、より人の出入りが少ないだろう「あずさ」にしました。
「よかった」空いてます
10時35分に甲府着。温泉へ向かうバスの時間は15時で散策の時間はたっぷり。
最初に訪れたのは、駅から2キロほど東にある甲斐善光寺。
山門です
「長野の善光寺はなぜか行ったことがない」と言う妻君。私も長野は何回か行きましたが、スキーか温泉旅行で、長野電鉄や飯山線にすぐに乗り換えたりしちゃって、町を歩いたことがありません。「コロナが収束したら、湯田中か渋温泉に泊まって、善光寺参りかな」と話していた折だったので、今回、「それならば甲斐の善光寺とかも観ておこうか」とお参りに来ました。
参道から金堂(本堂)へ
金堂の天上に竜が描かれ、手を叩くと共鳴します。案内には「日本一の鳴き竜」とありました。もう一つ金堂の地下の真っ暗闇の中を歩く「お戒壇廻り」も心が改まります。
境内を散歩。
伽藍に似合うフヨウ
芙蓉花も阿弥陀如来に頭垂れ 弁人
善光寺から東へ歩いて、右の坂を少し上って下り坂になった所。行く手に山梨学院高校が見えて来ますが、向かいの山の上にうっすらと
富士山が
この写真では見えませんか。
高校の脇を歩いて行くと、鳥居がありまして、
「酒折の宮」
そして、歌碑
この碑に刻まれた歌、どこかで聞いたことはありませんか。文学史のテキストなんかに載っています。
日本武尊命が東征を終えた帰路、この地の行宮で御火焼之老人(みひたきのおきな)と歌で問答したというお話。
「新治の筑波山を通ってから、もう何日経っているのだろう」
「指折り数えると、九泊十日でございます」
という問答ですが、それぞれの韻数が「(4)5・7・7」で、これを片歌形式と言います。
片歌は問答が基本ですが、二人の気持ちがより通じ合うということで、次第に三句目の言葉を同じにして、下の句を響き合わせるかのような形になって行きます。
やがて、片歌二首を「5・7・7/5・7・7」と一人で詠んでしまう人が出てきて、これを「旋頭歌」と言いますが、三句目と六句目が繰り返しになるので、だんだんと三句目を省略して詠むようになり、「5・7/5・7・7」という三十一音の短歌の形式が生まれたということです。
ということは、言い伝えの中とはいえ、和歌の最も古い形式の片歌のいちばん初めの問答がこの酒折の地で詠まれたこの歌だとすると、この歌のやりとりは、和歌文学、ひいては、現代の短歌や俳句に至るまで、我が国の短詩型文学の、まさに「起源・発祥」ということになります。
ちなみに、案内には「連歌発祥の地」とありまして・・、そこで「連歌」についてもちょこっと。
和歌の短歌形式が片歌の問答を元にした旋頭歌から生まれたということは「5・7・(7)/5・7・7」ということになりますから、万葉集の頃は二句切れの歌が基本でした。ところが、時の流れの中で次第に三句切れの歌が詠まれるようになって行きます。
「連歌」というのは、主流になった三句切れの和歌の、はじめの「5・7・5」を一人が詠んで、それに見合う下の句の「7・7」を別の人が詠む、いわば二人合作の歌遊びのことを言います。
やがて二人よりは三人、いや四人・五人と人数が増えて、二人目の「7・7」に相応しい上の句「5・7・5」を三人目の人が詠み、それではと、次の人がその上の句に下の句を、さらに上の句をと、交互に繋いで詠んで行く遊びが生まれます。これを「鎖連歌」とも言いますが、いわば中世に娯楽として流行した「連歌会」なる歌遊び、そこから生まれた連歌を二条良基らが編んだ連歌集を「莬玖波(ツクバ)集」と言います。その後の宗祇らによる連歌集を「新撰莬玖波集」、さらに機知やおかしみを含んだ俳諧連歌集、山崎宗鑑の「犬筑波集」という名前も見ても、当時の人が「連歌の起源」が、ここ酒折の宮に伝わる「片歌の問答」と考えていたことが伺われるのです。
そんな思いを駆け巡らせながら、日本武尊命を祀った1900年前に御鎮座したという
お社に参拝
実は、ずっと以前、高校野球の引率で山梨学院高校に来たことがありました。その時に、酒折宮へ行きたいなと思ったのですが、グランドはちょっと違う所にあったような気がします。もっとも、引率ですから行き帰りに寄るなんてできませんけど。
そんな思い出も振り返りながら、酒折駅へ歩いて、中央線で
甲府駅に戻りました
お昼。甲府に来れば「ほうとう」でしょう
駅前の「小作」です
「ほうとう」のお店ですが、海老や穴子の天ぷらもおいしそうでした。でもトシを取るとそんなにお腹に入りません。「鴨のほうとう」だけで満腹です。
さて、宿へ向かうバスまでまだ時間がありましたので、県庁の脇を歩いて、そのままお城の公園に入りました。
鍛冶曲輪門
甲府といえば武田信玄と思いますが、この甲府(舞鶴)城、武田家滅亡の後、家康の命によってできたお城とか。
でも、そんなことはいいでしょう。天気はいいし、
景色も良好
甲斐の国 山にちょこんと秋の富士 弁人
甲府からの富士は逆光になるので、うっすらと目に入ってきてもカメラに収めるのが難しく残念でした。
逆光といえば、明石海峡も眺めは淡路側からのほうが抜群。六甲山からの展望も昼間は逆光で海が眩しく光っています。ということで、夜景のほうが人気があるのです。
南向きが何でもいいとは限りませんね。
~次回「芦安温泉と帰途身延線」編へつづく~
まったく皮肉なことに、政治家が「総裁選だ」「総選挙だ」とうわの空になっているのが功を奏しているかのように、コロナの新規感染者数が激減して、首都圏の「緊急事態宣言」も今日までで解除とか。
おそらく、宣言が解除されれば、「人流」とかが再び盛んになるでしょうし、旅行に出る人も増えるはず。それに伴ってまた感染拡大して「第6派」とかがやって来るのかもしれません。
とか考えると、不謹慎かもしれませんが、宣言が解除される前の閑散としている今が「チャンスかもしれない、ちょっと一回出かけてみようか」ということで一泊の小旅行へ。目的は、「乗ってみたい電車」と「行ってみたい温泉」ということにして。
最初の「乗ってみたい電車」は中央本線特急の
「E353系」
新宿から松本行きの「あずさ」、甲府行きの「かいじ」の車両ですが、今は富士急行直通の特急や「はちおうじ」「おうめ」とかいう比較的近場の特急にも使われているようです。
3年前の夏、逗子駅に総合車両製作所からの甲種輸送の新車が停まっていて、「今度乗ろう」と思い、その秋、信濃大町から入る黒部アルペンルートの旅を計画したところ、新幹線の長野からのバスのほうが便利だということで乗れませんでした。
今回は甲府までなので「かいじ」でいいのですが、八王子からノンストップで、より人の出入りが少ないだろう「あずさ」にしました。
「よかった」空いてます
10時35分に甲府着。温泉へ向かうバスの時間は15時で散策の時間はたっぷり。
最初に訪れたのは、駅から2キロほど東にある甲斐善光寺。
山門です
「長野の善光寺はなぜか行ったことがない」と言う妻君。私も長野は何回か行きましたが、スキーか温泉旅行で、長野電鉄や飯山線にすぐに乗り換えたりしちゃって、町を歩いたことがありません。「コロナが収束したら、湯田中か渋温泉に泊まって、善光寺参りかな」と話していた折だったので、今回、「それならば甲斐の善光寺とかも観ておこうか」とお参りに来ました。
参道から金堂(本堂)へ
金堂の天上に竜が描かれ、手を叩くと共鳴します。案内には「日本一の鳴き竜」とありました。もう一つ金堂の地下の真っ暗闇の中を歩く「お戒壇廻り」も心が改まります。
境内を散歩。
伽藍に似合うフヨウ
芙蓉花も阿弥陀如来に頭垂れ 弁人
善光寺から東へ歩いて、右の坂を少し上って下り坂になった所。行く手に山梨学院高校が見えて来ますが、向かいの山の上にうっすらと
富士山が
この写真では見えませんか。
高校の脇を歩いて行くと、鳥居がありまして、
「酒折の宮」
そして、歌碑
この碑に刻まれた歌、どこかで聞いたことはありませんか。文学史のテキストなんかに載っています。
日本武尊命が東征を終えた帰路、この地の行宮で御火焼之老人(みひたきのおきな)と歌で問答したというお話。
「新治の筑波山を通ってから、もう何日経っているのだろう」
「指折り数えると、九泊十日でございます」
という問答ですが、それぞれの韻数が「(4)5・7・7」で、これを片歌形式と言います。
片歌は問答が基本ですが、二人の気持ちがより通じ合うということで、次第に三句目の言葉を同じにして、下の句を響き合わせるかのような形になって行きます。
やがて、片歌二首を「5・7・7/5・7・7」と一人で詠んでしまう人が出てきて、これを「旋頭歌」と言いますが、三句目と六句目が繰り返しになるので、だんだんと三句目を省略して詠むようになり、「5・7/5・7・7」という三十一音の短歌の形式が生まれたということです。
ということは、言い伝えの中とはいえ、和歌の最も古い形式の片歌のいちばん初めの問答がこの酒折の地で詠まれたこの歌だとすると、この歌のやりとりは、和歌文学、ひいては、現代の短歌や俳句に至るまで、我が国の短詩型文学の、まさに「起源・発祥」ということになります。
ちなみに、案内には「連歌発祥の地」とありまして・・、そこで「連歌」についてもちょこっと。
和歌の短歌形式が片歌の問答を元にした旋頭歌から生まれたということは「5・7・(7)/5・7・7」ということになりますから、万葉集の頃は二句切れの歌が基本でした。ところが、時の流れの中で次第に三句切れの歌が詠まれるようになって行きます。
「連歌」というのは、主流になった三句切れの和歌の、はじめの「5・7・5」を一人が詠んで、それに見合う下の句の「7・7」を別の人が詠む、いわば二人合作の歌遊びのことを言います。
やがて二人よりは三人、いや四人・五人と人数が増えて、二人目の「7・7」に相応しい上の句「5・7・5」を三人目の人が詠み、それではと、次の人がその上の句に下の句を、さらに上の句をと、交互に繋いで詠んで行く遊びが生まれます。これを「鎖連歌」とも言いますが、いわば中世に娯楽として流行した「連歌会」なる歌遊び、そこから生まれた連歌を二条良基らが編んだ連歌集を「莬玖波(ツクバ)集」と言います。その後の宗祇らによる連歌集を「新撰莬玖波集」、さらに機知やおかしみを含んだ俳諧連歌集、山崎宗鑑の「犬筑波集」という名前も見ても、当時の人が「連歌の起源」が、ここ酒折の宮に伝わる「片歌の問答」と考えていたことが伺われるのです。
そんな思いを駆け巡らせながら、日本武尊命を祀った1900年前に御鎮座したという
お社に参拝
実は、ずっと以前、高校野球の引率で山梨学院高校に来たことがありました。その時に、酒折宮へ行きたいなと思ったのですが、グランドはちょっと違う所にあったような気がします。もっとも、引率ですから行き帰りに寄るなんてできませんけど。
そんな思い出も振り返りながら、酒折駅へ歩いて、中央線で
甲府駅に戻りました
お昼。甲府に来れば「ほうとう」でしょう
駅前の「小作」です
「ほうとう」のお店ですが、海老や穴子の天ぷらもおいしそうでした。でもトシを取るとそんなにお腹に入りません。「鴨のほうとう」だけで満腹です。
さて、宿へ向かうバスまでまだ時間がありましたので、県庁の脇を歩いて、そのままお城の公園に入りました。
鍛冶曲輪門
甲府といえば武田信玄と思いますが、この甲府(舞鶴)城、武田家滅亡の後、家康の命によってできたお城とか。
でも、そんなことはいいでしょう。天気はいいし、
景色も良好
甲斐の国 山にちょこんと秋の富士 弁人
甲府からの富士は逆光になるので、うっすらと目に入ってきてもカメラに収めるのが難しく残念でした。
逆光といえば、明石海峡も眺めは淡路側からのほうが抜群。六甲山からの展望も昼間は逆光で海が眩しく光っています。ということで、夜景のほうが人気があるのです。
南向きが何でもいいとは限りませんね。
~次回「芦安温泉と帰途身延線」編へつづく~