6月18日(木)
梅雨の合間の曇り空。それにしても今日は涼しい。日々どんどん暑くなって行くこの時期、こんな日にウオーキングに出なかったら罰が当たりそうです。
逗子から鎌倉へ抜けるトンネルの手前。右に「逗子鎌倉ハイランド」へ上る桜並木の道があって、そのちょっと先。横須賀線の車窓からも見えるのが、
右から読むのですが、
「山畠猿」と山号が掲げられた山門
昨年の11月11日付けの「名越切り通し」の記事で触れた日蓮宗の古刹です。
700年以上も前のことなので、今は昔。
日蓮上人が「立正安国論」を鎌倉幕府の執権北条時頼へ献じたことで、浄土教信者らから草庵を襲撃・焼き討ちされた、いわゆる「松葉ヶ谷法難」、その時、難に先立って白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟に隠れて難を逃れたというお話。その白猿が額の両脇に。そんな言い伝えがあって建立されているので、山号は「猿畠山」と。
私なんぞは、この三文字を「おさるばたけ」と読んでいるのですが、山号ですから正式には音読みで「えんばくさん」。寺の名も音読みで「ほっしょうじ」です。
さて、この法性寺、お参りするには、ここからちょっときつい坂道を上っていくことになりますが、奥の院のさらに奥のほうに「名越の切り通し」が通っていて、そこからだと下りて来ればいい。それではと、今回も楽ちんをさせてもらって、横須賀線の線路の南側の丘陵の上にある亀が岡団地行きのバスに乗りました。
ということで、上の山門の写真は、実は帰路に就く時のものでした。
さて、バスを降りて数分、いつものように、ほの暗い岩肌の間を歩き、まんだら堂やぐら群の下を通って、まっすぐ大町方面には抜けず「大切岸」方面へ向かうと、まもなく右下に法性寺の墓地が見えてきます。
かなり細くて急な下りの道を慎重に下り、墓地から少し下った所にある奥の院へ向かうと、
道の脇は紫陽花の花盛り
奥の院、「祖師堂」
左の岩肌に見える大きな石窟が、法難の際に日蓮上人が避難した所とか。
石窟の岩肌の左に鳥居がありまして、
石の額に「山王大権現」と
上りはじめると、石段延々と。途中で人とすれ違っちゃったので、わからなくなってしまいましたが、70段くらいあったような感じ。
その代わり、この展望とプラス涼風
山王権現の祠と比較的新しい法塔が
法難の際、日蓮上人を助けたとかいう白い猿、実は山王神の使いだったようで、山王信仰の代表の日吉大社や、同じく全国の日枝神社、山王神社も猿が神のお使いになっているようです。
そういえば、日本では古来、猿は田畑や山を守る守護神またはその使者であるという民間信仰があって、そんなことは、神話の「猿田彦」、昔話の「猿婿入り」、貴族から庶民まで広がった「庚申信仰」などからも推測されます。そう、東照宮の「三猿」も関係していそうですし。
言い伝え耳に響けり梅雨の風 弁人
ということで、うっとうしいマスクをはずし、ひと時気持ち良い涼風を浴びていると、あれこれ思いが巡ります。
日蓮上人も山王神を崇めてお参りしていたのです。昔は、誰だって、神も仏も同じように大切にしていたのです。現実にお寺に鳥居があるのに、その場に行ってみると、それは「権現」という神だか仏だか、よくわからない祠になっている。
私は仏教徒でも神道家でもありませんが、一般庶民の信仰心というのは、お上の政策によってこうあるべきとされるものではないとつくづく思います。
因みに、法塔の下の文字に「山王権現(神)」についてこんな記述がありました。
「山の字の縦三本横一本、王の字の横三本縦一本の構成は、一心三観、三観即一心の妙法の心を示している」と。
仏教伝来以降の日本人にとっては、やはり、神と仏は一体だったのに。「フムフム」、妙に納得。
梅雨の合間の曇り空。それにしても今日は涼しい。日々どんどん暑くなって行くこの時期、こんな日にウオーキングに出なかったら罰が当たりそうです。
逗子から鎌倉へ抜けるトンネルの手前。右に「逗子鎌倉ハイランド」へ上る桜並木の道があって、そのちょっと先。横須賀線の車窓からも見えるのが、
右から読むのですが、
「山畠猿」と山号が掲げられた山門
昨年の11月11日付けの「名越切り通し」の記事で触れた日蓮宗の古刹です。
700年以上も前のことなので、今は昔。
日蓮上人が「立正安国論」を鎌倉幕府の執権北条時頼へ献じたことで、浄土教信者らから草庵を襲撃・焼き討ちされた、いわゆる「松葉ヶ谷法難」、その時、難に先立って白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟に隠れて難を逃れたというお話。その白猿が額の両脇に。そんな言い伝えがあって建立されているので、山号は「猿畠山」と。
私なんぞは、この三文字を「おさるばたけ」と読んでいるのですが、山号ですから正式には音読みで「えんばくさん」。寺の名も音読みで「ほっしょうじ」です。
さて、この法性寺、お参りするには、ここからちょっときつい坂道を上っていくことになりますが、奥の院のさらに奥のほうに「名越の切り通し」が通っていて、そこからだと下りて来ればいい。それではと、今回も楽ちんをさせてもらって、横須賀線の線路の南側の丘陵の上にある亀が岡団地行きのバスに乗りました。
ということで、上の山門の写真は、実は帰路に就く時のものでした。
さて、バスを降りて数分、いつものように、ほの暗い岩肌の間を歩き、まんだら堂やぐら群の下を通って、まっすぐ大町方面には抜けず「大切岸」方面へ向かうと、まもなく右下に法性寺の墓地が見えてきます。
かなり細くて急な下りの道を慎重に下り、墓地から少し下った所にある奥の院へ向かうと、
道の脇は紫陽花の花盛り
奥の院、「祖師堂」
左の岩肌に見える大きな石窟が、法難の際に日蓮上人が避難した所とか。
石窟の岩肌の左に鳥居がありまして、
石の額に「山王大権現」と
上りはじめると、石段延々と。途中で人とすれ違っちゃったので、わからなくなってしまいましたが、70段くらいあったような感じ。
その代わり、この展望とプラス涼風
山王権現の祠と比較的新しい法塔が
法難の際、日蓮上人を助けたとかいう白い猿、実は山王神の使いだったようで、山王信仰の代表の日吉大社や、同じく全国の日枝神社、山王神社も猿が神のお使いになっているようです。
そういえば、日本では古来、猿は田畑や山を守る守護神またはその使者であるという民間信仰があって、そんなことは、神話の「猿田彦」、昔話の「猿婿入り」、貴族から庶民まで広がった「庚申信仰」などからも推測されます。そう、東照宮の「三猿」も関係していそうですし。
言い伝え耳に響けり梅雨の風 弁人
ということで、うっとうしいマスクをはずし、ひと時気持ち良い涼風を浴びていると、あれこれ思いが巡ります。
日蓮上人も山王神を崇めてお参りしていたのです。昔は、誰だって、神も仏も同じように大切にしていたのです。現実にお寺に鳥居があるのに、その場に行ってみると、それは「権現」という神だか仏だか、よくわからない祠になっている。
私は仏教徒でも神道家でもありませんが、一般庶民の信仰心というのは、お上の政策によってこうあるべきとされるものではないとつくづく思います。
因みに、法塔の下の文字に「山王権現(神)」についてこんな記述がありました。
「山の字の縦三本横一本、王の字の横三本縦一本の構成は、一心三観、三観即一心の妙法の心を示している」と。
仏教伝来以降の日本人にとっては、やはり、神と仏は一体だったのに。「フムフム」、妙に納得。