チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

初冬の逗子の散歩道

2016-11-23 10:08:15 | 逗子風物
11月23日(休)

 昨日は早朝にかなり大きな地震があって目を覚ましました。まあ、日本列島は地震の巣の上に乗っかっているわけで、仕方ないと言えばそれまでですが、その上でどのように安定した社会を作って行くのかという自覚が、今の社会を背負っている方々は少々希薄ではないかという気がします。
 現実をみれば、東北の復興も道半ば、熊本の再建も始まったばかりだというのに、膨大な税金をつぎ込まなければならないオリンピックに大騒ぎ。原発再稼働の方針を貫き通す為政者。豊洲問題にしてもしかり、全て利権優先無計画、将来未来を見据えたグローバルなビジョンは全く見えません。なんか、人間の浅はかさだけが浮き彫りになっている感じがして、なんともやりきれません。


 さてさてそれはさておき、気がつけば立冬から半月、すっかり冬らしい日が多くなって、窓の小さい私の部屋はなかなか明るくならず少々寒々とした空間になっています。

 とはいえ、やはり昨今は暖冬傾向にあるようで、木々の色付きが遅くなっているのは事実、柔らかな日射しに誘われて散歩に出ると、ようやく銀杏の葉が黄色くなってきたと気づく時期となっています。

 三日前の日曜日でした。

 まだ晩秋の気配が残る
  田越川の河畔
      

 コサギは水辺なら日本中
  どこにでもいそうですが、
  
  

 いつ見ても、純白さが際立っていてなんとも美しい。本来首の長いこの種の鳥、リラックスしている時は頭を低くし、首を長く伸ばしているのは、餌を狙ったり警戒している時だろうと想像できます。
 上の写真のサギは草の中の何かを啄もうとしているのかもしれません。下のサギは昼寝でもしているのでしょうか、首がほとんど隠れて、まさか鯉にちょっかいを出すことはないでしょうが、流れの中の様子なんかも全く眼中にない落ち着きぶりです。

  鳥と魚を眺める猫
  
 とても手には届きそうにありませんが、できれば手を伸ばしたいとでも思っているのでしょうか。

 逗子の川にも
  アオサギがいました
  

 これも首がほとんどなくなっている状態。周りの鴨たちも日溜まりで丸くなって動きませんので、皆ウトウトしているのでしょう。


   とりどりに皆川べりの日向ぼこ   弁人


 明石にいた時、アオサギは大蔵海岸や明石公園、港の船着場などでよく見ました。1メートルくらいに近づいても動じない強者もいて親しみを感じていましたが、明石へ行く前、この田越川では出合った記憶がありませんでした。もっとも、この川っ淵をジョキングしていたのは8年も前のことになりますが。

 さて、長閑な散歩道。川の畔から離れて池子の森へ向かってみました。ここはかつて日本軍の旧弾薬庫だった所で、今では大半が米軍住宅になってしまいましたが、西側の三分の一くらいでしょうか、池子の森自然公園と称して市民にも開放されている緑地があります。

 神武寺側から入ると、左にスポーツエリアのグランドが階段状に何面も広がっていて、その先、右側の米軍住宅のフェンスに沿って坂を上って行くと、数分のところに「池子遺跡群資料館」があります。

 建物の横の
  ナンキンハゼ
  

 ちょっと遅かったかな。去年の秋に来た時に、この木の紅葉がいちばんきれいだと思ったのですが、もうかなり葉が落ちていました。

 正面の道路の反対側、米軍住宅の
  フェンスの向こう
  
  

 金網のフェンスと舗装された道路にやや違和感がありますが、手つかずの自然が残っていてなかなかの風情です。
 さらに進むと、この先にかなり立派なトンネルができていて、今年の春から、一般の市民も土、日、休日だけ通り抜けることができるようになりました。トンネルの中で米軍の車が追い抜いて行ったので、もしかしたら、この先の奥からも住宅地域へ通じている道があるのかもしれません。

 そのトンネルを抜けて
  振り返ったところ
  

 こちらは町名で言うと池子ではなく久木側になりますが、ナンキンハゼやイチョウモミジなどの色づく木々が少なく、晩秋らしい色合いではありません。
 そんな緑の中を少し歩いて行くと、左に逗子鎌倉ハイランドの下(久木町内)へ出る扉がありますが、

 右手は、広々とした
  芝生の公園になっています
  

 ここも土日と休日しか開放されていないのですが、夏にホタルが飛び交う小川や池があって、とても町中から容易に歩いて行ける所とは思えない自然の中です。

 市街地の近くに広がる池子の森。もともと旧日本軍の施設だった所が、戦後米軍によって接収され、日本人が近づけないまま全く開発の手が入らなかったことで、皮肉にも豊かな自然が現代に残ることになったのです。

 思えば、1983年に米軍住宅建設計画が明るみになった時、自然保護の観点から反対運動が起き、受け入れを容認した市長がリコールされるという事態にもなりました。私もその運動に参加した一人ですが、幾多の有余曲折を経て1996~98年の頃住宅ができてしまったのを覚えています。

 市民の要望は、戦後一貫して「返還要求」だったのですが、私の気持ちはちょっと違っていました。
 「皮肉にも」と前述しましたが、戦後日本に返還されず米国の管理下にあって、日本人の開発の手が及ばなかったことで、首都圏にも関わらず広大かつ貴重な自然林の緑地が残ったという事実。
 その自然を、国防上の問題だとはいえ、住宅建設という人為的な行為で開発してほしくない、返還されようが、米軍が持ち続けようが、とにかく特定の研究者以外の人の手が加わらないよう、貴重な自然をそのままに保全してほしいという切なる願いを抱いてのことだったのです。
 しかし、そんな思いも虚しく、森の半分以上が米軍家族住居地域となり、残りの部分が公園として市民に開放されるという経緯をたどってきたのです。

 この緑に覆われた公園、はたして全体の何分の一くらいなのでしょうか、部分的とはいえ、そこにも驚くほどの自然そのものの世界が広がっています。

 ホタルの舞いそうな池ですが、
  畔はススキに覆われていました
  

 長年に渡って人の暮らしと隔絶されていたことの効用か、今のところ外来種の生物が全くと言っていいほど見られないとのことです。
 そんなきわめて貴重な自然遺産を突っ切るように米軍用の舗装道路が続いています。そして、市民に開放する以上は最低限の施設が必要だったのか、さすがに遊具などはありませんが、あずま屋や休憩所、自然散策路など、人の手の加わったものも設置されています。
 はたして、これでよかったのでしょうか。人が自由に出入りできないままにしておいてもよかったのではないかと、心のどこかにそんな思いが残って拭いきることができないのも事実なのです。


   冬木立人為の仕業見え隠れ   弁人


コメント
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