1月11日(火)
正月明け、一昨年は4日、昨年は7日に明石へ戻っていました。今年は年末に申請したパスポートがまだ交付されないので、依然として逗子にとどまったままなのです。
昨日の1月10日、例年、関西は「十日戎」で盛り上がります。初詣がてらに、一昨年は今宮戎神社、去年は福男を決める開門神事で有名な西宮神社にお参りしました。
KAZU君の保育園のある稲爪神社にも恵比寿様がお祭りされていて賑わいます。聞くところによると、昨日10日の明石は、朝から雪が散らついていたそうで、寒い中3人で出かけたそうです。
ごめんね、KAZU君、おじいちゃんがいなくて。
ところで、退職したあとは比較的時間があり、最近は妻君が奈良にいることもあって、神社や仏閣を訪れる機会が多くなりました。
別に、信仰心が深いというわけではないのですが、日本では、季節折々の風物の中に、古くから伝わる宗教的な行事が多いからだと思います。
私たちが神仏の前でお祈りするのは、だいたいが現実の営みの中で、なかなか思うようにならないことや不安を抱かざるを得ないことを他力本願でなんとかしようという時です。その最たるものは、たぶん「死への不安・恐怖」ということになるのかもしれませんが、現実には「現世利益」をうたっている社寺が多く、私もふだんはお賽銭を入れたあと、「KAZU君が元気に成長しますように」とか、天神様であれば「賢く聡明な人間になりますように」というようなお願いをします。欲が深いのでしょうか、まだ「安らかにあの世に行けますように」とお祈りする境地にはなっていないようです。
さて、そのお祈りの仕方なのですが、私は頭を下げながら手を合わせてお祈りして、もう一度深くお辞儀をすという具合です。そう、神様ならお願いごとのあとに、よろしくという気持ちで柏手も2回叩きますね。そして、このお参りの仕方を不自然であるとか失礼であるとかという自覚は全くありません。
ところが、ずいぶん前からなのですが、神社へ参拝する時に気になることがあるのです。
どこの神社にも、「正しい参拝の仕方」という案内があって、「二礼・二拍手・一礼」と教えてくれています。
誰だって、お祈りは叶ったほうが良いですから、「正しい・・」と言われるとそうしたくなります。しかし、一般の人がこの作法に気に取られていると、肝心のお祈りをし忘れてしまったりします。神道関係の案内を見ると、二礼したあとお願いごとを唱え、二拍手に移っていくということですが、正式な所作というのは、それなりに練習して慣れておかなければ、普通の人にはなかなか難しいものです。
理由をご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、昔、私の母はこういうことに関して殊に厳格で、よく「二拝・二拍手・一拝」ということばで教えられました。
しかし、その頃から、このお参りの仕方は、神官が祭礼で行う時のような格式のある場面には相応しいのかもしれないけれど、どうも一般の人が自然な気持ちでお参りする時にはそぐわないのではないかという感想を持ち続けてきました。
したがって、私は神前結婚式やお宮参りの時などで玉串を上げる際には、この教えを守っていますが、ふだんはあまりこだわらずにお参りしています。
もちろん、「正しい参拝の仕方」というのは、あくまでも「親切なご案内」であって、強要しているものではないでしょう。だいいち、初詣の時やお祭りの時などの、参拝者で溢れかえっている時に、多くの人がこの参拝の仕方をしていたら、時間がかかって大変なことになってしまうでしょう。「十日戎」の時なんかも全然無理ですもの。
とは言っても、神前に立った時に「正式には・・」と書かれていれば、額づく側にとっては、重みのあることばとして受け取らざるを得なくなるのですから、やはりこういう案内は、特別な人とか篤志家などに許される「昇殿参拝」の時などに限ってほしいと思ったりします。
年末の、春日大社のおん祭りの時のことです。
夜中の0時、いよいよ真っ暗闇の中、若宮様がお旅所へご遷幸になるその前、春日大社の方からいろいろな注意事項が伝えられました。そして最後に「神様が前をお通りになる時には、二礼・二拍手・一礼でお迎えください」という指示が出されました。明かりが全て消され、私語のささやきも聞こえない、とにかく厳粛な空気と緊張感があふれる場面ですから、誰もが「正式でなければ」と思うでしょう。
でも、一般の人の中には戸惑う人もいるのです。どこからか「音を立てて手を打っていいのかな」というためらいの小声が聞こえました。それはおそらく「二礼・二拍手・一礼」を知らなかったからではなく、この場でそういう指示が出るとは思っていなかったからではないでしょうか。たしかに音を立てても構わないのでしょう、「できれば『オー、オー』という発声も」という要請もあったのですから。
そんな中、私は「一人ひとりの自由。敬虔な思いをもって頭を下げていれば、それでもいいじゃないか」と思っていました。そして、もちろん、手を合わせる人、深く一礼をする人、柏手を打つ人等々、様々な仕種をするの人の中を神様が進んで行かれました。
ところで、日本人の精神構造の中に、同一性を求める傾向が強いということを指摘されることがあります。「一定の枠からはみ出したくない」という姿勢を否定することはできませんが、「自分たちと同等の者が同じにしていない」ということにこだわる人が多くなるとしたら、その封建的な志向に、ある種の不安と恐ろしさを感じます。
もしかすると、そのうちに、神様の前で一礼をしてただ手を合わせているだけだと、白い目で見られる日が来るのではないかという不安です。神に額づく身でありながらと。
例えば、スポーツイベントの前に行われる「君が代」。法制化された現在では「国歌」ですが、以前は「国歌吹奏」が多かったのが、今ではほとんどが「国歌斉唱」となりました。帽子を取って立っているという許容範囲が、次第に口をパクパクしていないと場違いな感じになりつつあるとしたら・・・。
そうです。取り立てて疑問を抱かず、周囲に合わせていれば何も問題はないのですけどね。でも、人それぞれ。何事にも「そこまで付き合わされたくない」という人もいるはずなのです。
余談ですが、上のスポーツのイベントの場面で、同じことをしなくても状況的に許される人がいます。一部許されるのが外国の人。あとは腕に腕章を付けた人。警備の人は職務上なら何でも許される。それはもちろんですが、腕章と言えば報道陣やカメラマン。当たり前なのです。一般の人にとって、「自分たちと同等の人」ではないのですから。
それは仕方ないのですが、こういう人たちが変な特権意識を持って、「どうしてあなたはこうしないのですか」などと、づけづけと違う形で圧力をかけてきたりするのはほんとうに困りものです。
正月明け、一昨年は4日、昨年は7日に明石へ戻っていました。今年は年末に申請したパスポートがまだ交付されないので、依然として逗子にとどまったままなのです。
昨日の1月10日、例年、関西は「十日戎」で盛り上がります。初詣がてらに、一昨年は今宮戎神社、去年は福男を決める開門神事で有名な西宮神社にお参りしました。
KAZU君の保育園のある稲爪神社にも恵比寿様がお祭りされていて賑わいます。聞くところによると、昨日10日の明石は、朝から雪が散らついていたそうで、寒い中3人で出かけたそうです。
ごめんね、KAZU君、おじいちゃんがいなくて。
ところで、退職したあとは比較的時間があり、最近は妻君が奈良にいることもあって、神社や仏閣を訪れる機会が多くなりました。
別に、信仰心が深いというわけではないのですが、日本では、季節折々の風物の中に、古くから伝わる宗教的な行事が多いからだと思います。
私たちが神仏の前でお祈りするのは、だいたいが現実の営みの中で、なかなか思うようにならないことや不安を抱かざるを得ないことを他力本願でなんとかしようという時です。その最たるものは、たぶん「死への不安・恐怖」ということになるのかもしれませんが、現実には「現世利益」をうたっている社寺が多く、私もふだんはお賽銭を入れたあと、「KAZU君が元気に成長しますように」とか、天神様であれば「賢く聡明な人間になりますように」というようなお願いをします。欲が深いのでしょうか、まだ「安らかにあの世に行けますように」とお祈りする境地にはなっていないようです。
さて、そのお祈りの仕方なのですが、私は頭を下げながら手を合わせてお祈りして、もう一度深くお辞儀をすという具合です。そう、神様ならお願いごとのあとに、よろしくという気持ちで柏手も2回叩きますね。そして、このお参りの仕方を不自然であるとか失礼であるとかという自覚は全くありません。
ところが、ずいぶん前からなのですが、神社へ参拝する時に気になることがあるのです。
どこの神社にも、「正しい参拝の仕方」という案内があって、「二礼・二拍手・一礼」と教えてくれています。
誰だって、お祈りは叶ったほうが良いですから、「正しい・・」と言われるとそうしたくなります。しかし、一般の人がこの作法に気に取られていると、肝心のお祈りをし忘れてしまったりします。神道関係の案内を見ると、二礼したあとお願いごとを唱え、二拍手に移っていくということですが、正式な所作というのは、それなりに練習して慣れておかなければ、普通の人にはなかなか難しいものです。
理由をご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、昔、私の母はこういうことに関して殊に厳格で、よく「二拝・二拍手・一拝」ということばで教えられました。
しかし、その頃から、このお参りの仕方は、神官が祭礼で行う時のような格式のある場面には相応しいのかもしれないけれど、どうも一般の人が自然な気持ちでお参りする時にはそぐわないのではないかという感想を持ち続けてきました。
したがって、私は神前結婚式やお宮参りの時などで玉串を上げる際には、この教えを守っていますが、ふだんはあまりこだわらずにお参りしています。
もちろん、「正しい参拝の仕方」というのは、あくまでも「親切なご案内」であって、強要しているものではないでしょう。だいいち、初詣の時やお祭りの時などの、参拝者で溢れかえっている時に、多くの人がこの参拝の仕方をしていたら、時間がかかって大変なことになってしまうでしょう。「十日戎」の時なんかも全然無理ですもの。
とは言っても、神前に立った時に「正式には・・」と書かれていれば、額づく側にとっては、重みのあることばとして受け取らざるを得なくなるのですから、やはりこういう案内は、特別な人とか篤志家などに許される「昇殿参拝」の時などに限ってほしいと思ったりします。
年末の、春日大社のおん祭りの時のことです。
夜中の0時、いよいよ真っ暗闇の中、若宮様がお旅所へご遷幸になるその前、春日大社の方からいろいろな注意事項が伝えられました。そして最後に「神様が前をお通りになる時には、二礼・二拍手・一礼でお迎えください」という指示が出されました。明かりが全て消され、私語のささやきも聞こえない、とにかく厳粛な空気と緊張感があふれる場面ですから、誰もが「正式でなければ」と思うでしょう。
でも、一般の人の中には戸惑う人もいるのです。どこからか「音を立てて手を打っていいのかな」というためらいの小声が聞こえました。それはおそらく「二礼・二拍手・一礼」を知らなかったからではなく、この場でそういう指示が出るとは思っていなかったからではないでしょうか。たしかに音を立てても構わないのでしょう、「できれば『オー、オー』という発声も」という要請もあったのですから。
そんな中、私は「一人ひとりの自由。敬虔な思いをもって頭を下げていれば、それでもいいじゃないか」と思っていました。そして、もちろん、手を合わせる人、深く一礼をする人、柏手を打つ人等々、様々な仕種をするの人の中を神様が進んで行かれました。
ところで、日本人の精神構造の中に、同一性を求める傾向が強いということを指摘されることがあります。「一定の枠からはみ出したくない」という姿勢を否定することはできませんが、「自分たちと同等の者が同じにしていない」ということにこだわる人が多くなるとしたら、その封建的な志向に、ある種の不安と恐ろしさを感じます。
もしかすると、そのうちに、神様の前で一礼をしてただ手を合わせているだけだと、白い目で見られる日が来るのではないかという不安です。神に額づく身でありながらと。
例えば、スポーツイベントの前に行われる「君が代」。法制化された現在では「国歌」ですが、以前は「国歌吹奏」が多かったのが、今ではほとんどが「国歌斉唱」となりました。帽子を取って立っているという許容範囲が、次第に口をパクパクしていないと場違いな感じになりつつあるとしたら・・・。
そうです。取り立てて疑問を抱かず、周囲に合わせていれば何も問題はないのですけどね。でも、人それぞれ。何事にも「そこまで付き合わされたくない」という人もいるはずなのです。
余談ですが、上のスポーツのイベントの場面で、同じことをしなくても状況的に許される人がいます。一部許されるのが外国の人。あとは腕に腕章を付けた人。警備の人は職務上なら何でも許される。それはもちろんですが、腕章と言えば報道陣やカメラマン。当たり前なのです。一般の人にとって、「自分たちと同等の人」ではないのですから。
それは仕方ないのですが、こういう人たちが変な特権意識を持って、「どうしてあなたはこうしないのですか」などと、づけづけと違う形で圧力をかけてきたりするのはほんとうに困りものです。