チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

「春日大社-若宮おん祭」見聞録 その2

2010-12-21 15:25:02 | 旅行
12月21日(火)

  
 17日午後10時過ぎ、「お旅所祭」最後の演目の「舞楽」です。「落蹲(らくそん)」という二人舞で、枕草子に「-落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる-」とあります。

 お旅所のステージには、ここまで平安時代から伝わる貴重な伝統芸能が次々と登場して、8時間近くの時が流れています。私は、こういう方面には全くの素人で、知識も何もありませんが、それでも、自然に古への雰囲気に融け込んでしまいます。
 もちろん、見たことはありませんが、もしかしたら、「源氏物語」の中で光源氏と頭中将が舞ったという「青海波」の舞なども、こんな雰囲気だったのだろうかと勝手な空想をしたりしていました。


 さて、前記事の見聞録「その1」で記したとおり、17日の午前0時に若宮をお出ましになった御子神様がお旅所に落ち着かれ、いよいよ祭りも本番の時を迎えました。

 今日17日のハイライトは、祭礼に加わる人々や芸能集団が行列してお旅所に社参する「お渡り式」です。
 京都の「時代祭」の行列に似ているような感じもしますが、十数組の集団が、とにかく意匠を凝らして華やかに行進します。こういう美しい行列を「風流(ふりゅう)」と言うそうです。

  行列は、県庁前がスタート。まず西へ向かいます。
  

 近鉄奈良駅前からJR奈良駅前へと進み、三条通りを東へ折れてお旅所を目指します。

  興福寺の南大門では僧侶の点検を受けます。
  
 これを「交名の儀」と言い、この祭の主催権を持つ興福寺への敬意を表したものだそうです。要するに、その昔は藤原氏の氏神・氏寺として春日大社と興福寺が一体であったことを意味しているようです。


     北風も温み行きけるおん祭   弁人


 一の鳥居をくぐると、お旅所まではあと僅かです。ここで「風流」の行列はいろいろな所作を披露します。

  「競馬」や「流鏑馬」も
  

 やがて、行列は次々とお旅所に到着します。

  「野太刀」もお旅所に
  

 「お渡り」が終わると、いよいよ今日のクライマックスの「お旅所祭」が始まります。
 午後2時から祭式があり、若宮様がお帰りになる夜の11時頃まで、延々と神楽や芸能などが演じられるのです。

  巫女による「社伝神楽」
  
 春日大社では、巫女のことを「みかんこ」と呼んでいます。漢字で「御神子」でしょうか、勝手な想像ですいません。この「みかんこ」さんたち、ふだんは拝観の受付けやお札・お守り・お神籤の売り子の仕事をしているのですが、「神楽の舞」の習得にも余念がなく、そのお稽古も大切な仕事になっているのです。

 「社伝神楽」の後は一般の人にも境内が開放されて、様々な芸能が繰り広げられました。

  子どもの舞「東遊(あづまあそび)」
    

  「田楽座」による曲芸の演技
  

  「細男(せいのお)の舞」
  
 白い装束に、顔を白い布で覆っての不思議な雰囲気の舞でした。二人が笛、二人が小鼓を手に、素手の二人を加えて六人による静かな舞でした。

 そして、最後の演技「舞楽」に入って、いよいよ祭のクライマックス、佳境に入りました。

  天平時代にベトナム地方の僧仏哲が伝えたという「抜頭の舞」
  
 
 「舞楽」が終了していっとき、祭の興奮が夜のしじまに沈み込んで行く中、いよいよ「還幸の儀」の時がやって来ました。11時近くだったでしょうか、やがてすべての灯りが消され、再び、午前零時の「遷幸の儀」と同じように、太鼓の音・雅楽の調べ・神官の警蹕(みさき)の声とともに、御子神様が若宮神社へと帰って行かれました。

 華やかな「お渡り式」、幻想的な「お旅所祭」、そして、その祭礼の初めと終わりをきちんと形作っているかのような神秘的な「遷幸の儀」と「還幸の儀」。
 まさに、世俗を忘れて古への世界を彷徨った感じの、夢のような24時間でした。


     神遊ぶ師走の古都の香りかな   弁人


 翌日、電車好きのKAZU君が、「スーパーはくと」と「近鉄特急」を乗り継いで、おばあちゃんに会いに、そしておじいちゃんの迎えにと奈良までやって来ました。
  
 どんな味だったのでしょうか、KAZU君、冬の古都の空気をいっぱいに吸い込んで、おじいちゃんと一緒に明石に戻りました。



コメント (2)
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