芸術の森 ・ 片岡珠子展






5月17日の月曜日、行ってきました 「 芸術の森 」 に。

1回目はイサム・ノグチ展、2回目は四谷シモン展、なので、

今回は十年以上振りの3回目。 片岡珠子展です。

我が家からですと、まずバス → 地下鉄東西線 → 地下鉄南北線・終点 真駒内駅

→バス、というコースを辿ります。 

” 気軽に行けるよね! ” とは言い難く、” かなり遠いよね、やっぱし。 ”

でしたが、片岡珠子展、素晴らしかった!ので許す。


日本を代表する画家の一人である片岡珠子。

2008年1月16日 103歳で亡くなったそうですが、その芸術の基礎部分を育んだの

は、生まれ育った北海道は札幌の豊かな自然と街の風物、それから北海道人の

暖かな人情、とおっしゃるのですから誇らしいではありませんか。

その作品は、私の中の 「 日本画 」 のイメージからかけ離れていました。

初めて日本美術院 院展に入選した 『 枇杷 』 からしばらくの初期作品は素人目にも

日本画だなあ、という作風なのですが、それからあとは、徐々に凄くなっていくんです。

荒々しいとか、豪快とか、生命感溢れる、とか、エネルギッシュ、とか、そのような形容詞

は全部あてはまり、言い表してはいるのですが、「 面構 」( つらがまえ ) の連作など

を観ていると、 ”脳内宇宙 ” とでも言いたくなるような、真の芸術だけが持ち得る

パラダイスを感じるのです。 とてつもないドライヴ感! 自由! 命懸けの凄まじさと

相反する恐ろしいほどの静けさと。

そこには奇跡が普通に存在しています。

人間、、、いいえ、生物一体一体が宇宙そのもの、全部、 という考え方があり、

私はそんなスピリチュアルな思想を、理論うんぬんの前にすんなりとそうだな、と受け入れ

られる方なんですが、

芸術家とは、まさにそのような思想を、現実世界で私達が実際に五感を使って体験できるよ

うな仕様に変換する使命を受けて生きている人達なのだ、ということがすごーくよく理解

できます、片岡珠子の絵は。

実際、私は驚きました。 

明治生まれのおばあちゃん、日本画界の大御所、デパートの上の方のフロアで展示会をよく

やっている有名だけれどちょっとそういうのに多い垢抜けない雰囲気・・・・・ などと

心の中ではちびっとそんなイメージを勝手に持っていたんです。

バカでした。ゴメンナサイ。恥ずかしい。



   人のかなしみ、苦しみのときにその人のこころに何か点じられるような、そう

   いう絵が一枚でも描けたら、と、私は、それをねがいながら、これからの毎日を、

   生き生きと勉強をつづけてゆきたい、と思います。



片岡珠子 69歳の時の、新聞掲載の文章の一部だそうです。

やはり、そういう絵であったか・・・・・。 

その日、超だっこモードだった息子とべったりとくっついて ( くっつかれて ) 何とか

二周し観ることができた50作品18写生。

自覚無しにまたしても埋没しつつあった私の魂をガッツーンとぶん殴ってくれ、

目を覚ましてくれました。

そして、

生きるということの並々ならぬこと、とか、孤独、とか、美、とか、自由、というような、

人間にしかないであろう様々な感覚について身を添わせていることを、

なくても十分しあわせに生きていけるであろう、” 芸術 ” というものについて

理解し、憧れ、目指す志を、

決して決して失くしてしまわないように、と、叱ってもくれたのでした。


久しぶりの快晴のその日の札幌、

観終わって、美術館の前庭の広々とした芝生にて食べたお弁当も楽しかったし ( 子供づれ

親子いく組かも同じようにランチしていて、その風景もとってもよかった! )、詳細は省

きますが息子が、フルチンでその芝生を走り回って気持ちよさそうでうらやましかったし、

偶然会場で会ったうちのお客さんの生後3ヶ月の赤ちゃんの清らかな寝顔も見せてもらえ

て幸せだったし、

充実の展覧会の一日 でした!



   















コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )