ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

チョコレート

2011年02月21日 | ノンジャンル

「大きくなったら、チョコレート屋さんになりたいです!」

幼稚園の頃の息子の言葉である。

それなりに大きくなって、もうそんな気はないのかと
思っていたら、「チャーリーとチョコレート工場」を観て、
感動し、再び火がついたようになった。

さすがに高校生にもなると、そんな無邪気な考えは持って
いないだろうと思いきや、チョコレートの製造関係の
仕事に興味を持っているようだ。

バレンタインは、彼にとっては普通の男の子と違う
意味を持つ。
もちろん、女の子にもらうことができれば嬉しいのだろうが、
まあ、それは最低、母親からもらえばそれで良しとしている。

今年は学校でもらえたようだが、いずれにせよ彼の興味は、
この時期に出される様々な「特別な」チョコレートの方である。

普段でも、各メーカーのチョコを食べ比べ、
味の比較をしている。
普段と違うこの特別な時期の、特別なチョコは、彼の興味を
刺激してやまない。

自ら変わったチョコを買おうとさえするのを、この時期だけは
やめておけと、たしなめたほどである。
もらえないから、自分で買っていると見られるだけでも
カッコ悪いと思うのだが、彼はまるで無頓着である。

他の教科は大したことはないが、理数系だけはずば抜けて
成績の良い彼のことである。
新しいチョコの開発や製造に関わる仕事に、本当に将来就く
ことになるやもしれぬ。

幼稚園の時の夢を、現実に叶えるのだとすれば、これは
我が息子ながら立派だと思う。

私がもらって帰るチョコは、昔なら兄弟に、今では家族に
寄ってたかって食べ散らかされ、私が食べないうちに
なくなってしまうことも珍しくはない。

それでも、将来、もしも彼がその職について、彼自身が
納得のいく製品を作り上げた時には、それをゆっくりと
味わいたいと思うのである。

それを思うと、なんだか楽しくもあり、嬉しくもある。




HALT

2011年02月20日 | ノンジャンル
英語で、止める、停止するの意である。

我々、断酒するものにとっては、飲酒欲求を抑えるための
心がけとなる。
それぞれ、空腹、怒りやイライラ、孤独、疲労の英語の
頭文字をつなげて、HALTとなる。

いずれも、飲酒欲求を刺激する要素であるから、日常的に
その状況に陥らないように注意が必要である。

空腹と疲労は物理的なものであるから、対処は比較的
容易であるが、怒りと孤独は、対人、環境など周りとの
関わり合いが大きな要素である以上、なかなか難しい。

この避けるべき状況自体に、すでに難しい問題がある。
一人での断酒継続が不可能とされるゆえんである。

人との関わりの中では、当然ながら様々な喜怒哀楽が生じる。
喜につけ怒につけ哀につけ楽につけ飲んでいた者が、
飲まずにそれぞれに向き合うというのは確かに大変ではある。

それでも、やはり孤独であるよりは、人の中にいた方が、
はるかに楽なのである。

そしてなにより、一人でいるよりは、同じ仲間の中に
いることが最も断酒において大切なことを、本人自体が
自覚することが肝要である。

自助グループへの参加は、その自覚、つまり自らを助ける
自覚によって、自身の断酒継続を可能にしていく。

お酒を止めることよりも、止め続けていく方がはるかに
難しい病気である。 
止まらないお酒を医療で一旦止め、自助グループで
止め続けていくのが、いわゆる断酒の王道であることには
これからも変わりがないであろう。




変わる前後

2011年02月17日 | ノンジャンル
この世には確かに変わらないものがある。

原理、法則という、人が創ったものではなく、
もともと存在するものであり、それを原則と呼ぶ。

現実に認識できるもの、森羅万象すべては変転の中にある。
一瞬前と一瞬後では、認識できないほどの差ではあるが、
変化があり、それが差となる。

さて、その変化を人が認識する場合、変化する前と
変化した後の差を認識するのである。

顕著な差であれば認識は容易であるが、それがある程度の
経年によってようやく認識されるようなものであれば、
日々においてそれを実感することは難しい。

人も同じで、昨日の自分から突然別人のように今日変身する
わけではない。
だからこそ、その顕著な変身を短時間で実現できるのは、
外見上のことだけなのである。

我々の原則は、飲めば死ぬということである。
生きることを選ぶなら、飲まないというのが原則なのである。

飲んでいたという以前と、飲まないという以後においては、
状況としてはその差は顕著である。
だが、本人の変化というものは、当然ながら顕著には現れない。

それを本人も、周りも焦って求めたところで仕方がない。
桃栗三年、柿八年ともいうではないか。

種を植えたからといって、次の日に実がなることを求めるのと
同じことである。
自身にしても、周りにしても、何も変わらないなどと焦った
ところで詮がない。

断酒を継続している限り、目には見えなくとも確実に日々、
変化の中に本人も家族もいることを信じるしかないのである。

そして、その変化を実感として認識できたときには、
その前後を知るだけに、喜びもひとしおとなるのである。

そしてまた、その喜びが、さらなる変化を可能にしていく。
これを、正のスパイラルという。

飲めばまた負のスパイラルにいつの間にか巻き込まれていく。
それは飲むか飲まないかだけの差である。

そして、飲むのはあまりにもたやすく、
飲まないのはあまりにも難しいのである。

むろん、「飲まない」から「飲む」へ変化するのか、
「飲む」から「飲まない」へ変化するのかは、本人次第である。




落とし穴

2011年02月13日 | ノンジャンル
えてして、物事がうまくいっているときに慢心が起こり、
それが油断を呼ぶ。

そしてその油断によって、思わぬ落とし穴に落ちるのも
常である。

「勝って兜の緒を締めよ。」

「勝つと思うな、思えば負けよ。」

「攻撃のまさにその中に隙ができる。」

いずれも、慢心と油断とを戒めた言葉である。

喜びの真っ只中にいる時をさして有頂天という。
言い換えれば、そこからは簡単に転落してしまう
ということである。

喜びに至るまでの地道な努力と苦労を途絶えさせてしまえば、
それは次なる転落の遠因となる。

断酒を継続する中で、苦しみもあれば喜びもある。
それは、人として生きる上で、至極普通のことである。

飲めば苦しみも喜びもない。 あるのは絶望だけである。
このことをゆめゆめ忘れてはならない。

必ず回復のできる病気ではある。
しかし、この慢心と油断で、一杯のお酒に手をつけ、
再飲酒と断酒を繰り返す人が圧倒的に多いのが現実である。

その一杯に手をつけない、一日断酒の覚悟を日々
新たにすることが肝要である。

断酒をようやく継続できるようになっても、傷めつけた
身体が限界を超えていて死を迎える人もいる。

断酒、再飲酒を繰り返し、50代で死ぬ人は数知れない。
現実に自身の身の回りでも、多くの人が亡くなった。
そういう病気なのである。

人はいつかは死ぬ。 だが、その人それぞれの本来の寿命を
全うさせない病気である。
自殺、事故、静脈瘤破裂。 この病気に罹患し、断酒継続に
至らなかった人たちの死因で多くを占めるものである。

自分で体験し、経験した事実に対し、いかほどの年月が
経とうとも、謙虚であり続けなければならない。

何年か断酒を継続した人が嵌まるトラップが、
「もう大丈夫なんじゃないか」という慢心なのである。
そして、「一杯くらいなら」という油断なのである。

世間から見れば、大仰なことを言うと
思われるかもしれないが、それはまったく現実の話である。

覚せい剤など、麻薬で考えれば瞭然である。
何年もやめたから、この注射一本くらいと思うのと
なんら変わりない。

麻薬で、繰り返し逮捕される芸能人のニュースを見れば、
同じ過ちを何度も繰り返すことを疑問視されるが、
われわれの業界では、日常茶飯事である、

薬物中毒としてくくれば、ごく身近に日々起こっている
ことなのである。

慢心と油断という落とし穴が、いつでも身近にあることを
忘れないための抗酒剤、通院、自助グループなのである。




あきらめない

2011年02月12日 | ノンジャンル
あれはもう一年半も前だったか、いつも拝見している
アルコール依存症のご主人を持つ家族のブログで、
ふと目にしたコメントが気になった。

どうやらまだ若い女性のようだが、この病気の匂いが
プンプンする。
私の断酒も4年を過ぎ、落着いていた頃だったので、
余計に気になったのかもしれない。

彼女もブログを書いていて、そこでの記事を読むと、
かなり危険な状態だということが私には明らかだった。

あまり時間的な猶予もなさそうだったので、彼女が当時
住んでいた県の専門病院をリストアップして、
コメントを入れたのが最初であった。

彼女は一人であった。 幼い頃に、私など想像もできない
深い傷を心に負っていた。
経済的には自立していたが、心の自立には程遠かった。

入退院を繰り返し、ようやく地元の大阪に戻り、専門医にも
通院するようになるまでに、相談にも乗り、励ましもし、
時に突き放すこともしてきた。

私の態度は一貫させてきた。 
飲んでいる時は話をしない。
飲まずに苦しい時なら、泣き言であろうと愚痴であろうと
黙って聞く。

この病気になる人には、病気に至るそれぞれの背景がある。
何とか断酒を継続させていけば、肉体的な回復は目に見えて
進むが、実はその背景の問題を解決していくのに、時間も
かかれば、堪えられないほどの苦しみも必要なのである。

断酒の継続は、一人では不可能とされるのはそういう
ことなのである。
人に傷つけられた心は、やはり人によってしか癒されない。

本人次第であるということは繰り返し述べてきた。
だからこそ、本人があきらめなければ、周りもあきらめない。
専門医療の心構えは、このあきらめないにある。

彼女は、多分今まで経験したことのない、
人の愛情の中にいる。

その中で、自分の心の傷と向き合い、少しずつそれを
その愛情によって癒している。
そうした穏やかな、普通の日々の暮らしが、
彼女の断酒継続に力を与えると信ずる。

一度として会ったこともない人ではあるが、
こういう関わり合いもあるのかと思えば、
不思議な気さえする。

私自身、その関わりの中で多くの経験をさせてもらったし、
この病気の実例を自身の体験にプラスして学ばせてもらった。
感謝すべきことであろうと思う。

思えば、亡くなった院長先生も、こうした人の新生を
現場で数えきれないほどご覧になってきたからこそ、
あれほどの精力的な行動が可能であったのだと思われる。

雪の降る厳しい寒さの週末に、心が熱くなる回想となった。
お酒を飲むことよりも遥かに大切なこと、いや、お酒など
もう必要のない、新しい暮らしを始めた彼女に、心から
良かったと目頭が熱くなる想いでいる。

嫁ぐ娘を見送る父親の心境とはこういうものであろうか。

実の娘が嫁ぐ日のことに思いを馳せれば、かくしゃくと
していられるか、はなはだ心もとない。

情けないものであるが、苦労はしても、幸せであって
欲しいと願う気持ちには変わりがないのである。