ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

変わる前後

2011年02月17日 | ノンジャンル
この世には確かに変わらないものがある。

原理、法則という、人が創ったものではなく、
もともと存在するものであり、それを原則と呼ぶ。

現実に認識できるもの、森羅万象すべては変転の中にある。
一瞬前と一瞬後では、認識できないほどの差ではあるが、
変化があり、それが差となる。

さて、その変化を人が認識する場合、変化する前と
変化した後の差を認識するのである。

顕著な差であれば認識は容易であるが、それがある程度の
経年によってようやく認識されるようなものであれば、
日々においてそれを実感することは難しい。

人も同じで、昨日の自分から突然別人のように今日変身する
わけではない。
だからこそ、その顕著な変身を短時間で実現できるのは、
外見上のことだけなのである。

我々の原則は、飲めば死ぬということである。
生きることを選ぶなら、飲まないというのが原則なのである。

飲んでいたという以前と、飲まないという以後においては、
状況としてはその差は顕著である。
だが、本人の変化というものは、当然ながら顕著には現れない。

それを本人も、周りも焦って求めたところで仕方がない。
桃栗三年、柿八年ともいうではないか。

種を植えたからといって、次の日に実がなることを求めるのと
同じことである。
自身にしても、周りにしても、何も変わらないなどと焦った
ところで詮がない。

断酒を継続している限り、目には見えなくとも確実に日々、
変化の中に本人も家族もいることを信じるしかないのである。

そして、その変化を実感として認識できたときには、
その前後を知るだけに、喜びもひとしおとなるのである。

そしてまた、その喜びが、さらなる変化を可能にしていく。
これを、正のスパイラルという。

飲めばまた負のスパイラルにいつの間にか巻き込まれていく。
それは飲むか飲まないかだけの差である。

そして、飲むのはあまりにもたやすく、
飲まないのはあまりにも難しいのである。

むろん、「飲まない」から「飲む」へ変化するのか、
「飲む」から「飲まない」へ変化するのかは、本人次第である。