ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

仕切り

2011年02月10日 | ノンジャンル
子供の頃は、相撲は大好きであった。

初代貴ノ花の全盛の時代で、友人と相撲を取って
よく遊んだものである。

大きな身体の力士が相手を押し出す相撲など
興味はなかったが、小兵な身体に、強靭な粘りとバネを
持つ彼の相撲には、いつもヒヤヒヤさせられ、
手に汗を握って、祈るような思いで観ていた。

小さな大関でありながら、どれほど大きな相手にも
真っ向勝負の横綱相撲であった。
自分の何倍もあろうかという高見山との勝負は
常に見物であった。

相撲が好きというよりも、貴ノ花という力士が
好きであった。
初優勝の時の、テレビ画面が真っ黒になったかと
錯覚するような座布団の乱舞が、彼の人気を物語っている。

時間いっぱいまで、仕切りを繰り返すのを観ているのは
子供の頃は退屈だった。
さっさと立合えばいいものをといつも思っていた。

だが、大人になって見えてきたものは、仕切りの度に
両者とも気魂が充実していく姿であった。
それがピークに達した時に共にぶつかり合う、その火花が
散るような立合いに興奮も感動もしたものである。

事実、ぶつかり合った時に脳震とうを起こしたり、
気魂が互いに充実すれば、制限時間前に立合うことも
多かった。

そこには、ガチンコ勝負の厳しい、張り詰めた緊張感が
常にあったように思う。

今の相撲界にあまり興味はないし、観ることも殆どない。
八百長があろうがなかろうが、どうでもよいことである。

それ以前の問題として、本場所のびりびりとした
気魂の充溢が、いつからか、どうも感じられなく
なってしまった。

何度も何度も仕切り直すということは、我々にとっても
非常に大切なことである。
自ら覚悟し、決意したことでも、やはり時間とともに
それが惰性へと向かうことはままある。

5年経ち、10年経ちとする中で、足元をすくわれるのは
そういうことなのであろう。

それぞれの形で、一日、一日をしっかり仕切り直して
いきたいものである。