ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

体内時計

2007年05月16日 | ノンジャンル
早いもので、もう2週間程で、断酒2周年を迎える。

昨年の今頃も、出張が多く、慌しい日々を送っていたようだが、
やはりこの時期、5~7月というのは、一年のうちでも
自身にとって、いろいろな点で注意を要する時期のようだ。

長年、泳いでいなくとも、自転車に乗っていなくとも、
理論ではなく、無意識層に刻まれたもの、つまり、体で
覚えたことは、消えないので、泳げなくなることはないし、
自転車にもすぐにまた乗れる。

一年のうちで、一番辛い時期でもあるがゆえに、季節などの
周りの状況が同じようになってくると、その当時の心的状況が
フラッシュバックしてくるようである。

なんとなく気分が沈む、身体がだるい、気持ちが前に向かない、
朝が億劫となる、心が弾まないなど、そのフラッシュバックの
様相を感じている。

昨年も、同じような状況であったことを振り返ると、どうやら、
体内時計というものは、1日だけでなく、1週間、1ヶ月、
1年という単位でもそのサイクルを記憶し、体現している
ようである。

ただ、明らかに状況は、昨年よりは改善してきているし、
気分的なものに長く囚われることもない。
いい意味での開き直りや、鈍感にやり過ごすということが
出来る様にもなってきた。

一年、また一年と積み重ねることで、この病気も、いわゆる
一病息災の一病となっていくのかとも思える。

おかしな理屈ではあるが、自分の中では、3年をひとつの
目安にしていて、それまでは、いわゆる、剛の戦いと見ている。
何が何でも、飲まないという戦いであり、ある面、自分自身の
ことでありながら、力ずくの断酒とみている。

その後は、柔の戦いで、力は抜けるものの、しつこく、粘り強く
という戦いへとなっていくような気がしている。

柔よく剛を制すというが、そうなれば、しめたものだと思うのだ。



生き地獄

2007年05月14日 | ノンジャンル
一時、飲酒運転の問題が大きくクローズアップされて、
考えられないような事例を見るたびに、依存症を疑い、
事実、依存症である事を認識していない人の飲酒運転事故
などを目にするにつけ、複雑な思いでいた。

世間は相変わらず、依存症を堕落と自分勝手さと、自業自得の
成れの果てというイメージで見ているようだ。
何をどう弁明しようと現実的に症状として表れるのは
その通りであり、否定する余地は無い。

飲酒が原因で、事故が起きる事がないようにと願っては
いるのだが、厳しい規制や、罰則にも拘らず、止む事無く
事故は起きている。

依存症者本人が、酒害により引き起こす事件については、
数知れないが、今回、高齢の依存症者本人が、その家族に
絞殺される事件があった。
そして、その家族も、自殺を図り、心中未遂となったようだ。
なんともやりきれない事件である。

本人が酒害で命を落とすことは、言葉は悪いが、ありきたりの
話であるが家族に与える苦痛と弊害は、想像を絶する。
本人には、決して理解できるものではないとはいえ、今回の
事態にまで至ってしまった事は非常に残念である。

自助グループ、専門医療機関の拡大により、多くの方が回復への
道を歩んでおられるのも事実ではあるが、一方で、遥かに
その数を上回る依存症者が、今尚、自らを苦しめ、家族を
苦しめている事も、明らかな現実である。

回復への道を歩み始める事も、地獄へと突っ走る事も、本当に
紙一重の差にすぎない。
沈んだ気持ちになると同時に、今の自身の状況を、改めて
感慨深く噛み締めていた。

「飲んだらあかん、死んだらあかん、そこまで、苦しめたら
 あかん。」
何度となく、心の中で繰り返す。

本人は、最後まで自分勝手な酩酊の中で、死へと旅立ったで
あろうが、残されたものは、そこまで苦しめられ、追い詰められ
ながら、また更に、人を殺めたという、重い負い目を背負って、
生き地獄を味わいながら、それでも、生きていかねばならない。

恐ろしい、本当に恐ろしい病気なのである。


携わる者

2007年05月12日 | ノンジャンル
自身の状況と照らし合わせて、この依存症という病気の知識が
深まるにつれ、医療に携わる方々に思いを馳せると、なんとも
複雑な気分となる。

医師、看護士、ワーカーを主として、多くの「健常」な方々が
この病気に取り組み、患者と共に回復への道を模索している。

本人や、その家族でさえ、理解と認識と、適切な対応が難しいと
いうのに、健全な心身を持って、患者の苦しみや、懊悩を分かち
ながら、回復の軌道へと導くというのは、並大抵の努力と
覚悟無しには不可能である。

事実、待ったなしの環境の中で従事されておられる姿を
見るにつけ、本当に頭が下がる思いである。

患者本人の気持ちは、同じ患者にしかわからないというのは、
紛れも無い事実である。
それ故に自助グループの存在意義は大きい。 

だが、現実として、「わかろう」として、「回復」を願って、
日夜奮闘されている関係者がいることも事実である。

彼らに報いるために、我々が出来る事はたった一つ、
断酒継続によって回復し、元気に日々の生活を送るという
事でしかない。

スリップする、再び健康を害する、やつれた姿を見せる。。。 
これ以上の裏切りと、人の誠意を踏みにじる行為は無いと
いっても過言ではない。 

実際に、そうした辛い経験を何度も味わってこられている
方々の落胆と憔悴は、想像するに余りある。
露骨に落胆を表に出される事はないであろうが、それが反って、
気の毒でならない。

アルコールとは全く関係の無いところで、心身症となってしまう
のではないかとさえ懸念される。

断酒は当然ながら、誰の為でもなく自身の為であり、本人の
意志による事は疑いようも無いが、少なくとも、我々は、
人に求められている事があるということを知るべきである。

医療に携わる方々の笑顔も、家族の笑顔も、そのまま、自分自身の
回復の喜びである事を、肝に銘じておきたい。


原則

2007年05月10日 | ノンジャンル
例会での体験発表の原則、「言いっ放しの、聞きっ放し」に、
物足らなさを感じていたものだが、だんだんと、その意義深さが
理解出来るようになってきた。

体験というものは、その人固有のもので、その善し悪しを
評したり、論じたりしても無意味である。
あくまでも過去の事であり、それ自体をどうこうする事は
出来ないのである。
その体験を通して、これからどうしていくのかが重要であり、
それもまた、その人の意志の問題なのである。

自らの体験を発表する事で、自分はもちろん、他者にも良い
影響を与える場合があるだろうし、他者の体験を聞いて共感し、
自身の糧とすることも出来る。
互いに体験を発信し、受信して、共感できるものは保存し、
共感できないものは、削除すれば良い。
そこには、議論も論争も全く必要なく、また、なんら意味を
なさない。

ネット上の掲示板でも、断酒なる名目で、ネット例会という場を
設けているところをよく見かける。
だがそこでは、ともすれば、各々の思考、方法、意見、ひいては
思想なども提示され、それにより議論や論争へと発展している
ところが少なくない。
どうも私には理解しがたい世界である。

原則を踏まえるならば、同じく、「書きっぱなしの読みっ放し」で良
いのではないかと思うのだ。 
我々の唯一の共通項は、断酒継続である。
それ以外は、人それぞれ、違っていて当たり前の事である。
意見、主張、論評、批判などをして、その場を議論や論争の場と
したところで、なんら意味は無い。

理の上で、どれほど正しかろうが、論争で相手をやり込めようが、
現実的に再飲酒してしまえば、全てが水泡に帰してしまう。 
理論で断酒継続できるほど、この病気は甘くは無い。

現実的な、実感と、共感と、感謝と、謙虚さが実質的に断酒継続を
支えている事を知るべきである。
百万言を労しようとも、一杯のお酒に口をつけてしまえば
それまでなのである。

体験には体験で答え、読みっ放し、聞きっ放しが出来ないので
あれば、激励と、共鳴と、感謝の言葉をこそ、相手に対し
発信するべきで、それはそのまま、自身に対して発信している
という事を理解すべきなのです。


人間回復

2007年05月08日 | ノンジャンル
薬物であるアルコールを、経年的に過剰摂取してきた
我々にとって、断酒するという事は、ともすれば全てを
奪われてしまうような錯覚を引き起こす。

様々な場面、状況、環境下で、アルコールによって苦は楽に、
楽は更に楽にと感じる事が出来た記憶は消す事が出来ない。
もちろん、それは一時的な麻痺状態によって、現実逃避して
いたに過ぎないのであるが、理性のたがが緩む状態の快感を
得る事で、ストレスに対するバランスを取っていたとも言える。

こうした背景と、実体験としての記憶を消せない以上、
断酒というのは、想像以上に困難な事なのかもしれない。

そして、素面で現実に対処していく辛さが蓄積していく時、
再飲酒に走ってしまう事も、ある意味では、仕方の無い事
かもしれない。

ところで、仮に、催眠療法、あるいは薬物で、飲酒欲求を
消し去るとか、嫌酒感を抱かせるとかの療法が実現したと
すれば、断酒の継続は、単純に、より成功率が上がるとも
考えられるが、これは、人間復帰、あるいは、人間回復とは
いえない。

なぜなら、それは、アルコールに代わるある種の麻痺状態を
形成しているに過ぎず、断酒を可能にする事で、身体的な
健康の回復を得られるという利点はあるけれども、
人間回復という、根本的な問題解決とはならない。

抗酒剤は、あくまでもお酒に対する耐性を低下させ、飲めば
ひどい目に遭う事を自覚して服用する事で、飲まない覚悟を
決める為で、飲酒欲求を消すものではない。

従って、迂遠に見えるようではあるが、断酒を手段とし、
指針として、素面で明瞭な理性において、眼前の現実に
立ち向かい、一つ一つ対処解決をしていく以外に根本的な
解決は無い。

むしろ、そこにこそ、飲んで逃げていた自分から、
苦しみながらも立ち向かって行く中で、大きく成長していく
自分へと変っていく、重大な意義があるのである。

登るべき高い山を、登る想像ばかりで、実際は一歩も歩みを
進めていなかった自分から、苦しみながらも自らの足で、
一歩ずつ歩みを進める自分へと変わったのである。
そして、その一歩一歩の中に、実は大きな成長がある。

便利な乗り物に乗って、登ったとしても、何も変わる事は
ないし、成長も無いのである。
断酒を指針とし、手段として送る一日は、極言すれば、
成長の一日なのである。