ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

安定期

2007年05月25日 | ノンジャンル
我々の大原則は、「節酒は出来ないけれども、断酒は出来る」
ということであり、たった一杯のお酒が、全てを振り出しに戻し、
回復の道を途絶えさせるという、大きな危険性を持つ中で、
断酒を継続している。

この大原則を、強迫観念として捉えるならば、今後の生活
そのものが、何となく重苦しいものとなってしまう。

「もう一生分飲みましたので、お酒は終わり」と考えた方が、
気分的には楽である。

ここで、脅迫的な事ばかりを並べて、いわゆる恐怖による断酒を
押し付ける事によって、過渡期ともいえる3年間を乗り越えさせ、
安定期へと導入していく事は、意義深い面もあるが、それでは、
本人の意志というものの確立が、3年もの期間を経ても成されて
いないという、本末転倒の結果となってしまう。

強制的な矯正が必要とされる、場合、期間もあるだろうが、
それだけでは根本的な断酒継続の力とはなりえない。

少し話を転ずれば、現時点での自分自身の状態を客観的に見た
場合、健康面では完全に回復し、家庭生活、社会生活もなんら
支障なく、また、最大の相違点として、依存症の病識、理解と
いうものがかなり深くなっている事が挙げられる。

この状態で、仮に節酒を前提に再飲酒をしたとしても、ある程度の
期間は、コントロールしながら飲むという事が出来ると思われる。 
期間、程度にもよるが、再びピタッと止めて、断酒生活に入るという
ことも可能であろう。

だがそれは、あくまでも一定の期間であって、継続的に
コントロールし続ける事は、到底不可能である事は、誰よりも
自分自身が認識し、自覚している。
そして、再び理性の力の及ばぬ囚われの身となってしまう事も、
明らか過ぎるくらい明らかに見えている。

強迫観念でも、強制でもなく、自らの選択として、一杯のお酒に
もう二度と手をつけないことにしているのであって、あくまでも
自身の自由意志として、その道を選んだにすぎない。

時に、飲めたらなぁと思ってしまう自分を、自分で苦笑しながら
受け入れた上で、飲む事は決してしない。
何も、肩を張った生き方ではなく、それを自然な事として受け入れ
られるようになっていくのに、少なくとも3年という時間が
必要なのかもと感じている。

ありのままの自分で、ごく自然な事として、断酒を継続していく
段階に、足を踏み入れたところなのかもしれないと考えている。