母親の墓前で手を合わせると、なぜか自分の
嫌なところをあからさまに見せつけられる。
それでいて、それを素直に認めて、
気をつけて直さないとなという気にさせられる。
そこに母親はいない。
ただ、その遺骨があるのみである。
だが、そこは、やはり母親に会える場所なのだ。
時には黙ってこちらを見つめている。
打ちひしがれた情けない姿に、雨を降らせて
私を追い返した時もあった。
時に、褒める代わりに虹をかけてくれた
事もあった。
そこには、人として生きる自身の原点がある。
どんな自分も、そこでは一旦受け入れて
もらえるからだ。
つまりどんな自分も、自ら認めることから
また新たに始めることができるという意味で
原点とも言えるのだ。
生きる手段としての断酒には、
無論その原点がある。
しかし、自分を自分たらしめる、
自身の原点といえば、それはやはり
母親なのであろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/42/c12c54251b8ef7a0f2ac70691ed36f78.jpg)
嫌なところをあからさまに見せつけられる。
それでいて、それを素直に認めて、
気をつけて直さないとなという気にさせられる。
そこに母親はいない。
ただ、その遺骨があるのみである。
だが、そこは、やはり母親に会える場所なのだ。
時には黙ってこちらを見つめている。
打ちひしがれた情けない姿に、雨を降らせて
私を追い返した時もあった。
時に、褒める代わりに虹をかけてくれた
事もあった。
そこには、人として生きる自身の原点がある。
どんな自分も、そこでは一旦受け入れて
もらえるからだ。
つまりどんな自分も、自ら認めることから
また新たに始めることができるという意味で
原点とも言えるのだ。
生きる手段としての断酒には、
無論その原点がある。
しかし、自分を自分たらしめる、
自身の原点といえば、それはやはり
母親なのであろう。
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ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」
に出てくるオスカル少年が卑俗な大人たちの振る舞いに怒り
太鼓を打ちならし、叫ぶ時、彼は「母なる絶対」に自分の行為が担保されていることを知っているのだろう。
スカートの中は、宝浄世界たる母胎を
象徴していたのかもしれません。