ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

旅立ち

2018年11月16日 | ノンジャンル
「死」というものを、不幸とするなら、私たちは
その不幸に向かって生きていることになる。

例外なく一定である死が不幸なら、今を生きる
意味などない。

わざわざ不幸で終わる為に生きる必要など
ないではないか。

死というものを意識するのは、生きるものである。
死に哀しみ、不幸を感じるのも生きるものである。

死の間際に、幸せを感じるか、不幸を感じるかは、
自身がその時になってみないとわからない。

つまり、生きているものの目線で死をいかに
解釈しようとしても、詮がないということだ。

今年亡くなった家内の父親は、死の直前、自分で
あと2週間くらいかなと言っていたそうである。
その通り、2週間後に他界した。

彼は不幸だったのか。 いや、彼は、幸・不幸など
眼中になく、その日を今生の別れと新たな旅立ちと
見ていたに違いない。

私の父親も、恐らく年を越せるかどうかという
ところだが、穏やかな日々を過ごしている。

彼もまた、新たな旅立ちの準備をしていると
私には思えるのである。





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2 Comments

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Unknown (はる)
2018-11-17 05:51:39
ある人は肉体が完成すると共に「死」というものが自身の裡に入って来た。

それまでは「死」というものは自分の外部にあったといったが、これは万人向きの考えではないだろう。

先に逝くものは先に逝くのであり、その「死」を残された者は送らねばならない。

即ち「野辺おくり」ということなのだが、この風習も廃れて久しい。

鬼籍という言葉もまた・・・
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Unknown (jetlinks)
2018-11-17 10:09:12
三島でしょうか。意識できる死は常に
他者のものですが、それをもって
自分の生きるに昇華した者が、
自身の死を受け入れられるのだと
思います。
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