「死」というものを、不幸とするなら、私たちは
その不幸に向かって生きていることになる。
例外なく一定である死が不幸なら、今を生きる
意味などない。
わざわざ不幸で終わる為に生きる必要など
ないではないか。
死というものを意識するのは、生きるものである。
死に哀しみ、不幸を感じるのも生きるものである。
死の間際に、幸せを感じるか、不幸を感じるかは、
自身がその時になってみないとわからない。
つまり、生きているものの目線で死をいかに
解釈しようとしても、詮がないということだ。
今年亡くなった家内の父親は、死の直前、自分で
あと2週間くらいかなと言っていたそうである。
その通り、2週間後に他界した。
彼は不幸だったのか。 いや、彼は、幸・不幸など
眼中になく、その日を今生の別れと新たな旅立ちと
見ていたに違いない。
私の父親も、恐らく年を越せるかどうかという
ところだが、穏やかな日々を過ごしている。
彼もまた、新たな旅立ちの準備をしていると
私には思えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/8a/b5593cec2934486d834fc8a85a8a6a39.jpg)
その不幸に向かって生きていることになる。
例外なく一定である死が不幸なら、今を生きる
意味などない。
わざわざ不幸で終わる為に生きる必要など
ないではないか。
死というものを意識するのは、生きるものである。
死に哀しみ、不幸を感じるのも生きるものである。
死の間際に、幸せを感じるか、不幸を感じるかは、
自身がその時になってみないとわからない。
つまり、生きているものの目線で死をいかに
解釈しようとしても、詮がないということだ。
今年亡くなった家内の父親は、死の直前、自分で
あと2週間くらいかなと言っていたそうである。
その通り、2週間後に他界した。
彼は不幸だったのか。 いや、彼は、幸・不幸など
眼中になく、その日を今生の別れと新たな旅立ちと
見ていたに違いない。
私の父親も、恐らく年を越せるかどうかという
ところだが、穏やかな日々を過ごしている。
彼もまた、新たな旅立ちの準備をしていると
私には思えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/8a/b5593cec2934486d834fc8a85a8a6a39.jpg)
それまでは「死」というものは自分の外部にあったといったが、これは万人向きの考えではないだろう。
先に逝くものは先に逝くのであり、その「死」を残された者は送らねばならない。
即ち「野辺おくり」ということなのだが、この風習も廃れて久しい。
鬼籍という言葉もまた・・・
他者のものですが、それをもって
自分の生きるに昇華した者が、
自身の死を受け入れられるのだと
思います。