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2月19日 『観音経』と交通事故

2月19日

『観音経』と交通事故

これはまた聞きの話である。

有る仏教学者が講演の後、聴衆からこんな質問を受けた。

「私の知り合いに熱心な『観音経』の信者がいます。毎日観音経を読誦していました。そのれなのに、彼は交通事故に遭って大怪我をしました。観音経の功徳はないのですか?・・・」その質問に仏教学者はうまく答えられなかった。

「いや、あの時は困ったよ・・・」

とパーティーの時に、仲間にこぼした。すると有名な仏教評論家がこう言った。

「馬鹿だねえ、君は。そういうときは『観音経』の功徳でその人は怪我ですんだのだ。そうでなければ死んでいた、と答えれば良いのだよ」話はこれだけである。

いや、私が聞いたのはこれだけである。

そして私は二人ともおかしいと思う。仏教において経典を読誦する、お念仏を称える。あるいはお題目を唱えるといった行為は、何かの功徳を求めてするものではない。そんな目的を以ってするお念仏、お題目は不純である。仏教において経典を読誦するのはまさに「経典を読誦するそのことが目的」である。

 お念仏を称えさせていただける。そのことが嬉しいのだ。仏教ではそう考えるべきだ。仏教学者も、仏教評論家も、その肝心なことが分かっていなかったのである。

 私も時々問われることがある。

「お念仏をすれば、どうなりますか?」

そう尋ねる人に、私は反問する。

『散歩をすればどうなりますか?』

「健康になります」と答える人がいるが、私はそれは違うと思っている。

『そうじゃないでしょう。健康のためならほかにいいものがいっぱいあります。散歩よりジョギングの方がいい。散歩はね。散歩そのものが楽しいのですよ。

たのしいから散歩をするのです。

それと同じで、お念仏そのものが楽しいんです。

だから、お念仏するのです。私はそう思っています』

これが仏教の考え方だと私は信じている。

明治40年(1907)2月19日、「自動車取締規則」が制定された。

時速は12、7キロ以下とされている。

 

 

 

 

 

 

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「教えてください」

「教えてください」

18日20時20分ごろ電話が鳴った。

「先生、今晩は、吉岡です」

高知・南国市の知人、吉岡さんからだった。

『ああ、今晩は・・・』

「先生、今日の田中君の事を書いたブログを読みましたよ」

『ああ、そうですか・・・まだ始まらないうちからあんなことを書くものだから、不愉快に思う人も多いでしょうね』

 「そんなこと無いです。今までたいていのことは先生の言った通りの結果になっていますからね。先生は当たるんではなくて、当てるんですよね」

『いやそんな大げさなことではないですよ』

「ところで、浅田真央はどうでしょうか?」

『何がですか?名前の画数でしたら彼女は100点満点です。完全大吉名ですよ』

 「いやそうじゃなくて、金メダルはとれますかね?教えてください」

『それはわかりません。取れるとも感じないし、取れないとも感じない(こういうのは初めて)。私も日本人ですから彼女は取れればいいと思いますよ。』

 「みんなが取れる取れると騒いでいるのですが、私は彼女の本番での弱さから取れないと思っています、先生ズバリ書いてくださいよ」

『いや、感じないことは書けませんよ』

 「うーん、何とか書いてくれると・・・」

『あなたから、こういう電話が有ったと言うことであれば、このやりとりは書けますよ』

 「お願いします。それなら、このやりとりを書いてください」

**

そのようなわけでこれを投稿したが、彼女が金メダルを取れるのかどうか注目の的らしい。残念ながら、ズバリ「取れるとも取れないとも」私は全く感じないのだ。

 彼女には取ってほしいが、どっちなのか?と聞かれれば、口説いようだが、やはり「わからない・感じない」のである。

 

 

 

 

 

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