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福島原発・深まる無念

東日本大震災

衰亡の道をたどる商店街

深まる無念

2月12日河北新報

商店街仲間の訃報が届いた。2012年5月。福島県浪江町のJR常磐線浪江駅前の真心商店街でスーパーを営んだ男性が亡くなった。62歳。福島原発事故で避難し、一時帰宅した時に首をつった。

 町商工会長の原田雄一さん(64)は男性と小中学校の同級生だった。男性は寡黙で、店頭で黙々と品出しをしていた。

 スタンプカードをためた御客さんの優待旅行で店の漬物を無料で振る舞った。総菜のサバの味噌煮とナスのピリ辛炒めは絶品。大型スーパーが進出しても町民は男性の店に足を運んだ。

「どれほど悔しかったろう。営業再開のめどが立たず、将来を悲観したのだろうか。男性の無念さを代弁する。

 避難後、男性とは会わずじまいだった。用事が有れば、自転車で駆け付ける仲、携帯電話の番号を知る必要もなかった。

「会って悩みを聞いていれば、早まったことをさせずに済んだかもしれない」と悔やむ。

 町は避難区域指定が解けない。商店街は無人のまま、衰退をたどろうとしている。店主らの苦悩は深い。

原田さんは男性の死後、会員の悩みを聞きに避難先を回る相談事業を始めた。

まだまだ帰還困難の中で自死者も増えている。この記事は作日の「たかじんのお別れ会」安倍首相発起人の記事と同じ河北新報2月12日社会面の同じページに載っている。

 悲しい深い問題を抱えた福島の現状と、無責任な大うそつき安倍首相の動向記事・・・・国民も良く考えるべきだ。日本はこんな首相でいいのか?

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2月17日・一蓮托生

 

2月17日

一蓮托生

時代劇などにおいて窮地に追いつめられた悪党どもが、『こうなれば、一蓮托生だ』と言う場面がある。一人だけ助かろうとするな。

助かる時は仲間の全員が、そして捕縛されるときは皆で一緒に捕縛されよう・・・と、団結を呼びかけた言葉である。

 どうも世間一般では、この一蓮托生はあまり感心しない意味に使われているようだ。

しかし、これは仏教の言葉である。仏教においては蓮の花、すなわち蓮華は聖花とされている。仏像の多くが蓮華をかたどった台座(蓮華座)に安置される。

蓮が泥の中に育ちながら、しかも泥水に染まらずに

美しい花を咲かせるところが、煩悩のうちに有って

素晴らしい花を開かせようとする大乗仏教の精神に通ずるとされるからである。

 そして、蓮が神聖視された結果、阿弥陀仏のおられる極楽世界には、美しい蓮の花が一杯咲いているとされた。その光景が『阿弥陀経』に次のように描写されている。『池中の蓮華大きさ車輪のごとし。青色には青光黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて微妙・香潔なり』

 ◎浄土教の信者は死後、この阿弥陀仏の極楽世界の蓮華の上に生まれることを願っている。阿弥陀仏は、極楽世界に生まれることを願って、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えた者は誰でも必ず自分の仏国土である極楽世界に迎えてくださることを約束しておられるから、お念仏を称えた者は全員極楽世界の蓮華の上に生まれることが出来るのである。

 それで信仰を共にする仲間は、来世も一緒に暮らしたいと願い、「同じ蓮の上に生まれよう」と祈った。それが『一蓮托生』である。

 したがって一蓮托生は、親子、夫婦、信仰仲間の間での願いであった。しかし、のちには、この世で結ばれることのなかった恋人たちが、来世には、同じ蓮の葉の上に生まれて添い遂げたい・・・との願いの言葉になったのである。悪人の言う「一蓮托生」とは大分意味が違うのである。

昭和12年(1937)2月17日、国会議事堂前、宮城前広場など5カ所で、5人の青年が、

「死のう、死のう、死のう」と叫んで割腹自殺を試みた。いずれも未遂に終わったが、彼らは、

『日蓮殉教衆青年党』の団員達であった。

 

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