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2月25日 左遷の心構え

2月25日

「左遷」の時の心構え

 サラリーマン生活でなにが悔しいといっても、左遷ほど悔しいことはない。

いっそ会社を辞めようか・・・と思う人も多い。

そんな時ちょっと法然上人のことを考えてみたらどうだろうか。

我が国浄土宗の元祖法然上人の生涯は、決して順風ばかりでなかった。多くの逆風が有る。その最大の逆風は、承元元年(1207)の院宣による土佐(実際は讃岐)への配流であった。これは左遷と言った生易しいものではない。犯罪人としての流刑であった。だが法然は、この流罪をこのように受けとめている。

 「流刑更に恨みとすべからず。その故は、齢すでに八旬に迫りぬ。たとい師弟同じ都に住すとも娑婆の離別近きにあるべし・・・中略・・・しかのみならず、

念仏の興行、洛陽にして年久し、辺鄙(へんぴ)に赴きて,田夫野人をすすめんこと季来(きらい)の本意なり。しかれども、時至らずして、素意未だ果たさず、今事の縁によりて、季来の本意を遂げんこと、すこぶる朝恩とも云うふべし」

 ――流罪になったことを怨(うら)んではいけない、なぜなら私はもう80歳近いのであり、師弟が同じ京都にいても娑婆の別れはもうすぐだ。・・・そればかりではない。念仏を弘めることを中央(京都)では長い間してきたが、地方に行って田舎の人々に念仏をすすめるのが

永年の願いであった。だが時がいたらず、その願いを果たしていない。今こういうこと(流罪)があって、永年の願いが遂げられることは、むしろ「朝恩」と言ってよさそうである。

 流罪をチャンスに、地方の人々に念仏を弘められる。

そう考えるなら、流罪は朝恩と受け取れるわけだ。法然はそう言っている。

 もっとも、朝恩と言った表現を文字通りに解釈するか、法然がそこに皮肉を込めているか、意見は分かれるであろう。しかし法然が流罪に屈せず、それを逆転させて絶好のチャンスととらえていたことは間違いない。

 サラリーマンが左遷された時、官費、社費で地方に留学させて貰った、と考えたら面白そうだ。

日本史最大の左遷は、菅原道真(延喜3年=903年2月25日没)のそれであろう。

道真は、右大臣から太宰権帥(太宰のごんの措置)に左遷された。

 

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