日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
国の放射線測定のデタラメを暴く・5(最終回)
国の放射線測定のデタラメを暴く・5
規制庁の担当者に放射線知識なし
実際、工事がほとんど効果を上げなかったことは,本誌の独自測定結果を見ても明らかだ。効き目のない工事に1億5千万円の税金が使われ、その後は何一つ抜本的な対策が取られていないのである。
こうした状況に国はどうこたえるのか。現在、モニタリングポストを管理している原子力規制庁監視情報課の担当者にたずねた。
――携帯型測定器で調べた結果、モニタリングポスト(以下ポストという)は低い値を示すことが分かった。
担当者「ポストは『グレイ』という単位で測っていて、携帯型測定器の単位の『シーベルト』とは違う。比較できない」
――原子力規制委員会のウエブサイトに双方は同じものとして換算してある。それにシーベルトの方が高めになるとしても、40~50%の違いは大きいのではないか。
「科学者グループが測定した話は聞いていないのでわからない」
――それではなぜ調整工事をしたのか。
「自治体や住民から放射線量が低く表示されるのではないかとの問い合わせがあったからだ。調べたところバッテリーの位置など周辺環境の違いによって、!10%ほどの違いがあることがわたった」
――ポストを設置する時に、気が付かなかったのか。
「ポストは適切に校正はされていたが、遮蔽の影響などに関しての知見が十分蓄積されていなかった」
――調整工事をして適切に表示されるようになったのか。
「少なからず、数値は変わった。ただ、10%以上の上昇をした例はなかったようだ。工事後に数値が低いという声は、どこからも来ていない」
――筆者が測ったら、まだ30~40%も低い。
「バッテリーなどの構造物は取り除けないので、周辺環境の影響を完全に遮断は出来ない」
――つまり、依然として誤差があるとの認識か。
「何を以って誤差というのかだ。質問の言葉のとらえ方がわからない」最後は誤差の意味が分からないという意味不明の回答となった。しかも驚いたことに当時の国の発表では「(携帯型)サーベイメーターで測定した値と比べてポストの値が低い」だったのが、規制庁の説明ではいつの間にか「(ポストの検出器が測定する数値に)10%ほどの変動幅がある」にすり替わっていたのである。こうした規制庁の姿勢に矢ケ崎氏が呆れる。
「住民が受けている放射線に比べて、モニタリングポストの数字がどれだけ低いかが大切なのです。第一、グレイとシーベルトの単位の違いと言うが、ガンマ線では両者に差はなく、これはICRP(国際放射線防護委員会)でも決まっています。放射線のことを知らない規制庁の担当者が、一体、原子力の何を規制できるのでしょうか」
この瞬間にも福島の住民の被曝量よりかなり低い放射線量が、国の公式な記録として蓄積され続けている。注目される東京都知事選では原発即ゼロが争点になっているが、原発事故をめぐる問題は、まだまだ山積みという現実を、ぜひとも知っていただきたいものだ。
―完―
2月15日・ 怠りなく努力せよ
2月15日
怠ることなく努力せよ。
ヒラニアヴァティー河を渡れば、そこはクシナガラの郊外である。80歳の釈迦は、お待者の阿難(アーナンダ)に寄りかかりながら、ヒラニアヴァティー河を渡られた。『阿難よ、私はここで横になりたい』
最早、釈迦にはそれ以上歩く力がなくなっていた。
クシナガラ郊外の沙羅樹の間に、阿難が衣を折りたたんで造った床の上に、釈迦は横になられる。
北を枕にし、右脇を下にして、足と足とがきっちりと重ね合わされている。釈迦は静かに目を閉じられた。
釈迦の80年の生涯
--そのうちの45年は伝道の旅に明け、説法の旅に暮れた遊行の人生であったが――は、今まさに幕を下ろさんとしているのだ。
お待者の阿難は、思わず涙を流してしまった。その阿難に釈迦はこう言われた。
『阿難よ、泣くのをやめよ。私はかねがね教えて来たではないか。“別れは必ずあるのだ”と』釈迦に諭されて阿難は涙をぬぐった。そしてクシナガラの町の人々に伝えに行った。
仏教の開祖のお釈迦様は今夜入滅される。お釈迦さまを拝すのは今夜が最後の機会だ、と。それを聞いて大勢の人々がやってきた。老若男女、クシナガラの住民のほとんどが釈迦を拝そうとしてやってきた。
人間ばかりではない。鹿や馬、牛・・・様々な獣たちが集まってきた。空を飛ぶ鳥たちも、釈迦との最後の別れのために、集まってくる。全部で52種類の生類が参集したという。仏典にそう書かれている。
そして、
「では、私の最後の言葉を告げよう。なべて世は無常である。怠ることなく努力を続けよ――」
そう言い残して、釈迦は静かに息を引き取られた。
その日は2月15日であったという。
それゆえ、われわれは、2月15日を「涅槃会・ねはんえ」と呼び、お釈迦さまを偲ぶ日としている。
“涅槃”とは生命の火の消滅を意味する。釈迦のうちに有って燃え続けていた生命の火が消え、釈迦は真理の世界に帰還されたのである。