日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
小泉純一郎の原発逆襲計画
小泉純一郎の原発逆襲計画
日刊ゲンダイ2月19日
都知事選に勝った安倍自民は「小泉神話は終わった」と高笑いだが、認識が甘いのではないか。小泉純一郎元首相は脱原発を諦めてはいない。逆襲はこれからだ。
「小泉さんはやる気満々ですよ。表向きは否定していますが、今後も首長戦などで、脱原発候補の要請が有れば、応援に出向くでしょう。都知事選の街宣車の中では『次はオレも頑張らなきゃ』と言っていたそうですから、自分が立つ可能性だってある。自民党の中にも手を突っ込む可能性もあります」(政治ジャーナリスト鈴木哲夫氏)。キーパーソンとされるのは、自民党きっての脱原発派、河野太郎衆院議員だ。
変人同士で通じ合うものがあるのか、小泉は講演で河野太郎の名前を何度か出していた。河野から贈られたというエイモリー・B・ロビンスの「新しい火の創造」という脱原発本もよく引き合いに出している。
16日付の朝日新聞では、昨年秋小泉から河野に「君には先見の明が有ったよ」と電話がかかってきたエピソードが紹介されている。
「小泉元総理が、次の総裁選で河野太郎を担ぎ、自民党を乗っ取るという話を聞きます。あまり知られていないが、河野と息子の小泉進次郎は凄く仲がいい。
一昨年の衆議院選でただ一人進次郎の応援に入ったのが河野だった。
圧勝確実の進次郎の選挙区に入りたがる議員は多かったけど、他は皆断られた。例の脱原発本も、進次郎 を通じて小泉元総理に届けられたそうです。
河野太郎総裁―――小泉進次郎 幹事長なら国民から絶大な支持を得られるはずです」(自民党関係者) そうは言っても安倍政権が途中で倒れなければ、次の総裁選は二年後だ。
本気モードの小泉が、それまで手をこまねいているとも思えない。「来年の統一地方選へ向けて原発ゼロ勢力を結集することも考えていると思う。そうなれば一気に政界再編です。今年の春に原発再稼働が決まれば、脱原発で世論の大きなうねりが起きるかも知れない。
その時は小泉さんの出番です」(鈴木哲夫氏)
最新の世論調査を見ても、国民の過半数は原発の再稼働に反対だ。安倍政権が原発の再稼働に突っ走れば、小泉劇場の本番が始まる。 おわり
2月23日 日輝上人とミりエル司教
2月23日
日輝上人とミリエル司教
フランスのロマン派作家、ユゴーの「レ・ミゼラブル」
に感動的な場面がある。一切れのパンを盗んだがために、19年間も牢獄で過ごさねばならなかったジャン・ヴァルジャンは、出獄の直後ミリエル司教の教会に止めてもらう。
ミリエル司教はこの前科者を温かく遇するが、彼は教会から銀の燭台や食器を盗んで逃げ去る。だが警視につかまり、教会に連れ戻されたジャン・ヴァルジャンにミリエル司教が言った。
「あの燭台や食器はあなたに上げたものです。どうぞ自由にお持ちなさい」
この一言でジャン・ヴァルジャンは立ち直ることが出来たのであった。
*
日輝上人は近世日蓮教学の大成者である。安政6年(1859)2月23日、63歳で亡くなった。
日輝上人が生まれ故郷の金沢の立像寺(りゅうぞう・じ)に在って大勢の門下生に宗学を教えていた時、学寮の中で度重なる盗難事件が有った。やがて犯人が捕まった。窃盗の現場を抑えられたのだ。犯人は同門の寮生であり、寮の代表たちが、犯人を上人の所に連行し、処罰をお願いした。
「承知した」と上人は言われた。が、その後一向に処分の発表がない。そこで再び代表たちが日輝上人の所へ行き、こう談判した。
「私たちはあの男と一緒には修業が出来ません。あの男の処罰がないならば、私たちはここを去ります」
すると上人は言われた。
「そうか、仕方がない。ではお前たちが去るがよい」
訝(いぶか)る彼らに、上人は理由を説明された。
「あの男は、どこに行っても務まるまい。それであの男をわしの許に置いておいてやりたい。
しかし、お前たちであれば、どこに行っても大丈夫だ。しっかりやってきなさい」と。
その上人の心を知って、代表たちも自分の間違いに気付いた。そしてのちにその上人の言葉を教わった犯人も、涙を流して上人に詫び、見事に立ち直ったという。
人間を目覚めさせてくれるのは愛の言葉であり、思いやりの心なのだ。
冷たい処罰は人間をかえって頑(かたく)なにさせるだけだろう。
メダルに勝る感動
メダルに勝る感動
初日のSPで、多くのファンが意外であった16位。
ライバルのキム・ヨナ選手は過去最高の得点で1位。
翌日のフリーは競技出来ないのじゃないかと、多くの人が気をもみ、心配した。
*
ふたを開けてみれば、完璧な演技で過去最高の得点。よくぞ一晩で立ち直ったものだ。ライバルのキム・ヨナも完ぺきな演技で金メダルは確実と思われたが、ロシアの17歳に軍配が上がって、これも意外な結果の銀に終わった。
さて金メダルを取ったロシアの女性の名もまだ思い浮かばない。
しかし浅田真央に対する称賛と、感動の言葉は引きを切らぬ押し寄せぶり。初日SPでがっくり、2日目フリーでにっこり。
世界中のフィギュア・ファンを感動させ、最後まであきらめない浅田真央の不屈の魂は、全世界の人々に深く感銘を与えてくれた。
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単純に金メダルを取るとか取らないとかの次元で語り得ないこれほどのドラマが展開されたフィギュア競技、これから先、いつまでも語りつがれるであろう。浅田真央さんありがとう!!
2月22日・「世間虚仮 唯仏是真
2月22日
「世間虚仮、唯仏是真」
(せけんこけ・ゆいぶつぜしん)
聖徳太子(推古天皇30年=622年・2月22日没)
のことばに、「世間虚仮・唯仏是真」がある。
「世間は虚仮にして、唯(ただ)仏のみ是れ真なり」と読む。
しかしこの言葉ほど誤解されているものは少ない。
たとえば、江戸時代の儒者たちは、聖徳太子は摂政皇太子であったから政治家で有った筈だ。その政治家が自分が治めるべき世間を虚仮(こけ=いつわり)と見ていたのでは、いい政治が出来るわけはない―と攻撃をしている。
だがそれは聖徳太子の言葉を曲解したものだ。私はそう思う。
聖徳太子の考えはこうである。
―私たちの生きているこの世間は、差別の世界である。
大と小、長と短、男と女、
美と醜、善と悪、益と害・・・と様々な差別がある。
しかしそうした差別は“仮”のもの、“虚仮”なるものであってそれらの差別を絶対視してはならない。
それらの差別を超えた所に、無差別平等の仏の世界があり、その仏の世界のみが真実なのだ。我々はその真実の仏の世界を忘れてこの世間の差別にこだわってはいけない。
そう太子は言われたのだと思う。
たとえば、私たちは学校で出来る子、出来ない子に差別している。本当は、どの子もすべて素晴らしいほとけの子なのに、子供たちに点数をつけて差別しているのである。
それはよくないことだ。しかしいま点数評価を一切止めると、現行の教育制度は崩壊してしまう。
だから文部省は、差別の制度を守り続けるであろう。しかしその時でも文部省のお役人は、子供を差別しても良いとは思わないで欲しい。
人間を差別する権利は誰にもない。
差別せざるを得ないのであれば、それは仮に差別させて貰うのだ。涙をこぼしながら、差別を許してもらう。
それが「虚仮」の意味である。
会社の経営者は社員の給料に差をつけねばならぬだろう。しかしその時でも、働きの悪い者には給料は低くて当たり前・・・といったふうに考えないでほしい。
申し訳ないが、会社を運営していくために差をつけさせていただく・・・と、詫びながら差をつけさせていただくのだ。そういうことを聖徳太子は教えられたのである。
日本は戦前に逆戻り中
日本は戦前に逆戻り中
行きつく先は経済破滅
2月18日・日刊ゲンダイ
NHK以下の言論は、安倍政権の意のままに操られ。政権を批判する気骨のある知識人は発言の場を失い、教育に修身が復活し、歴史歪曲教科書の採用が強制され、議会は与党勢力一色に近づき、自国を美化する国粋主義者が選挙で大量の票を集める事態になった。
その他にも数え上げればキリのない。
戦争の悲惨さを知らない世代を学校教育の保守化によって無知蒙昧の衆愚の群れに育て上げた自民党亡国政権の驚くべき成果であると言える。
*
男子フィギュアで初の金メダリストになった羽生結弦(19)は「日本人として誇りに思う」と話した。
東日本大震災で自宅が壊れ避難所生活を経験。一時はリンクを離れることも考えたという。その後カナダに拠点を移し、技術を磨いた。海外での生活は日本人であることをより強く感じさせる。彼の『誇り』には、さまざまな経験や苦労が詰まっていそうだ。
ところが安倍首相はそんなアスリートを「さすが日本男児だ」と単純化して持ちあげた。わざわざカメラを招き入れ、首相公邸から電話する様子を撮影させ、放映させている。
経済再生を掲げ「世界で勝つ」と拳を振りかざす安倍にとって、「日本人の誇り」を胸に秘めた若者は格好の宣伝材料に映ったのだろう。
もちろん多くの日本人も羽生に拍手喝采している。元気づけられた人も多いはずだ。ただブライアン・オーサー氏ら彼を支えたコーチ陣はカナダ人である。
SPに使われた「パリの散歩道」の作曲者ゲイリー・ムーアは北アイルランドの生まれだ。
羽生の偉業は、日本の力だけで生まれたものではない。
だから本人も「日本で、世界で応援してくれる皆さんの思いも持って表彰台に立てた」と言ったのだろう。
それに比べると金メダルに便乗して日本を美化する首相は余りにも単細胞で薄気味悪い。安倍と一緒に「日本サイコー」と叫ぶ人たちも無邪気だ。
日本社会はどんどんおかしな方向に向かっている。
アベノミクスも完全におかしくなってきた。このまなら行くつく先は経済的破滅である。
国民はその危うさを早く理解すべきだ。
2月21日・自殺者への手向け
2月21日
心中した者への手向け
心中はほめてやるのが手向けなり
死に切って嬉しさうなる顔二つ
江戸川柳で心中を詠んだ句である。これを見ると、江戸時代の庶民はなんだか心中を奨励しているかのように見えるが、そうではない。
江戸中期の元禄時代、京、大阪を中心に心中が流行し、それが江戸にも移ってきた。この流行の背景には読売祭文や近松門左衛門の浄瑠璃が有った。
心中事件があると、それがすぐに浄瑠璃などにつくられ、それに触発されて次の心中が起きたのである。
近松の作品だけを見ても、『生玉心中』『心中天網島』
『心中宵庚申』といった名作が多く、心中事件を扱えば当たり狂言疑いなしというありさまであった。
このように心中を美化する世間の風潮に対して、享保7年(1722)、幕府は心中事件の読売を禁じた。
そして翌年の2月21日には心中者の刑罰を定め、また心中事件の出版・上演を禁止した。
これによって、心中は公式には『相対死』と称され。罰則として心中した者の屍体は、葬式を許さず、もしも一方が生き残った場合、その片割れは死刑となった。
そして、心中に失敗して両人共に生き残った場合、江戸においては日本橋の橋詰に三日間さらし者にされ、の手に下げ渡されることになった。
だから、最初に上げた江戸川柳は、失敗すれば残酷な運命が待っているのだから、うまく死ねて良かったね・・・と死に切れた二人に庶民たちが手向けの言葉を送ってやっているのである。
きっと二人はあの世において、一つ蓮(はちす)に仲良く並んで夫婦になれるだろう・・・。そういった句なのである。
*
心中は自殺である。キリスト教においては自殺は罪悪とされている。もちろん仏教においても自殺が肯定されるわけではない。自殺者は地獄に堕ちるとされている。
けれどもそれは、自殺を予防するための話である。自殺を思いとどまらせるために,『自殺をすれば地獄に堕ちるぞ』と脅すことは正しい。
だが自殺をした人間に向かって、あるいは自殺者の家族に対して、自殺を罪悪として糾弾する態度は取るべきではない。江戸川柳のように暖かい言葉を送ってやった方がいいと私は思うのである。
女性に膝蹴り・産経新聞記者を逮捕
交際女性の顔に膝蹴り
傷害で産経新聞記者を逮捕
交際中の女性(22)の顔に膝蹴りをしてケガを負わせたとして、兵庫県西宮署は11日傷害の疑いで、神戸市兵庫区水木通り、産経新聞神戸総局記者の
森 勇人(27)を逮捕した。
西宮署によると「喧嘩はしたが暴力は振るっていない」と容疑を否認している。女性が10日、西宮署を訪れて被害を訴えた。4日にも「交際相手から暴力を受けている」と相談しており、応対した警察官が被害届を出すように促したが、その時は断った。
逮捕容疑は、8日午後7時ごろ、自宅で女性の右目の下付近を膝で蹴り、軽傷を負わせた疑い。
女性は「外食の支払いをめぐって口論になった」と説明している。
*
“頭の中が天ぷらカスの安倍晋三内閣”御用達、デタラメ産経新聞の記者らしい。
ろくな記事も書かず書けずに、やっていることは交際女性へのタカリや暴力沙汰だとは。
外食ぐらい自分が持つのは当たり前だろうに・・・やっぱり世も末だ。
2月20日 「ありがとう」のことば
2月20日
「ありがとう」の言葉
海外旅行で日本人が一番まごつくのはチップであろう。日本にはチップの風習がない。だからつい忘れてしまう。いや忘れるのはまだいい。例えば空港やホテルのトイレにはサービス係がいる。
こちらが手を洗うとちゃんとタオルを渡してくれるが、日本人はそれを拒否して自分のハンカチで手を拭く。トイレに入ってチップを払うのが、何か損した気になるのである。
最近は少しましになったが、かつてはインドのホテルでは、何かにつけてボーイが部屋に入ってきて、ベッドメイクをしたり、お湯を持ってきたりして、チップをせしめようとする。朝になればこちらが荷物を運び出していないうちから部屋に入ってきて、チップの枕銭を探す。こちらが置くのを忘れていれば、当てつけがましい仕草をする。
そうなるとこちらはいやになり、チップなどやるものか?!という気になる。
しかしそれは間違いだ。外国では感謝の気持ちをチップにして表現する慣行があるのだ。したがってチップは感謝の気持ちの表明なのだ。
外国では、チップという形式でしか感謝の気持ちを表現できないのであるから、その習慣に従わなければならない。
一方現代の日本においては、われわれは感謝の気持ちを言葉で以ってしか表現できない。この点では農村中心であった昔の日本と、都会型の現代日本とでは、社会の構造が根本的に違っている。かつての日本の社会では必要なかったかもしれないが、現代の日本では何らかの潤滑油が必要だと思う。
そして私は、その潤滑油が「ありがとう」の言葉だと思う。外国におけるチップと同じものとして、もっともっと『ありがとう』の言葉を言うべきではなかろうか・・・。
なお、『ありがたい』と言った言葉は法華経からでたものだという。
本来は
「有ることが難(かた)い」
「めったに会うことができない」・・・の意であった。
それが「めったにないことをしてくださって感激です」の意味で、感謝の言葉になったのである。
*
明治11年(1878)2月20日、
日本政府はそれまであった“海外行免状”を
“海外旅券”と改称し、「海外旅券規則」を定めた。
2月19日 『観音経』と交通事故
2月19日
『観音経』と交通事故
これはまた聞きの話である。
有る仏教学者が講演の後、聴衆からこんな質問を受けた。
「私の知り合いに熱心な『観音経』の信者がいます。毎日観音経を読誦していました。そのれなのに、彼は交通事故に遭って大怪我をしました。観音経の功徳はないのですか?・・・」その質問に仏教学者はうまく答えられなかった。
「いや、あの時は困ったよ・・・」
とパーティーの時に、仲間にこぼした。すると有名な仏教評論家がこう言った。
「馬鹿だねえ、君は。そういうときは『観音経』の功徳でその人は怪我ですんだのだ。そうでなければ死んでいた、と答えれば良いのだよ」話はこれだけである。
いや、私が聞いたのはこれだけである。
そして私は二人ともおかしいと思う。仏教において経典を読誦する、お念仏を称える。あるいはお題目を唱えるといった行為は、何かの功徳を求めてするものではない。そんな目的を以ってするお念仏、お題目は不純である。仏教において経典を読誦するのはまさに「経典を読誦するそのことが目的」である。
お念仏を称えさせていただける。そのことが嬉しいのだ。仏教ではそう考えるべきだ。仏教学者も、仏教評論家も、その肝心なことが分かっていなかったのである。
私も時々問われることがある。
「お念仏をすれば、どうなりますか?」
そう尋ねる人に、私は反問する。
『散歩をすればどうなりますか?』
「健康になります」と答える人がいるが、私はそれは違うと思っている。
『そうじゃないでしょう。健康のためならほかにいいものがいっぱいあります。散歩よりジョギングの方がいい。散歩はね。散歩そのものが楽しいのですよ。
たのしいから散歩をするのです。
それと同じで、お念仏そのものが楽しいんです。
だから、お念仏するのです。私はそう思っています』
これが仏教の考え方だと私は信じている。
*
明治40年(1907)2月19日、「自動車取締規則」が制定された。
時速は12、7キロ以下とされている。
「教えてください」
「教えてください」
18日20時20分ごろ電話が鳴った。
「先生、今晩は、吉岡です」
高知・南国市の知人、吉岡さんからだった。
『ああ、今晩は・・・』
「先生、今日の田中君の事を書いたブログを読みましたよ」
『ああ、そうですか・・・まだ始まらないうちからあんなことを書くものだから、不愉快に思う人も多いでしょうね』
「そんなこと無いです。今までたいていのことは先生の言った通りの結果になっていますからね。先生は当たるんではなくて、当てるんですよね」
『いやそんな大げさなことではないですよ』
*
「ところで、浅田真央はどうでしょうか?」
『何がですか?名前の画数でしたら彼女は100点満点です。完全大吉名ですよ』
「いやそうじゃなくて、金メダルはとれますかね?教えてください」
『それはわかりません。取れるとも感じないし、取れないとも感じない(こういうのは初めて)。私も日本人ですから彼女は取れればいいと思いますよ。』
「みんなが取れる取れると騒いでいるのですが、私は彼女の本番での弱さから取れないと思っています、先生ズバリ書いてくださいよ」
『いや、感じないことは書けませんよ』
「うーん、何とか書いてくれると・・・」
『あなたから、こういう電話が有ったと言うことであれば、このやりとりは書けますよ』
「お願いします。それなら、このやりとりを書いてください」
**
そのようなわけでこれを投稿したが、彼女が金メダルを取れるのかどうか注目の的らしい。残念ながら、ズバリ「取れるとも取れないとも」私は全く感じないのだ。
彼女には取ってほしいが、どっちなのか?と聞かれれば、口説いようだが、やはり「わからない・感じない」のである。
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