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我々は田中角榮の「何」を知っていたのか?

             我々は田中角榮の「何」を知っていたのか?
                     その四

◎1957年(昭和32年)岸内閣で郵政大臣に就任した後、省内を視察すると昼休みだったとはいえ、マージャンにふけったり、机の上に足を投げ出したりと綱紀のゆるんだ状況を目のあたりにした。

怒り心頭の田中はことの原因を調査し、省内が2大派閥に割れて対立していることを突き止め、2大派閥のボス同士を次の人事異動で勇退(更迭)させた。

その結果、省内の雰囲気はすっかり良くなったという。

◎田中は日本の官僚を極めて高く評価していた。池田内閣での大蔵大臣就任後、官僚たちを、「歩く肥大化した図書館」と言っていた。

予算編成のため、休日返上、不眠不休で働き頑張っている彼らに「大臣室に来てくれ」と一人ずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これで汗ふきにタオルでも買ってくれ」と現金の入った封筒を渡した。

驚く官僚たちに田中は
「こんなことで影響を受けたりはしないだろう?」
「お前達は日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮する筈ないだろう?」
「俺も見返りなど要求しない。おれの気持ちだ。受けとってくれ。」と言った話術と迫力を持って黙らせた。

ボーナスの時期になると、ポケットマネ-で課長以上の人間に総額2000万円以上ものカネを使い個人的にボーナスを渡していた。

◎相手を説得するときは極力1対1で会い、1対1の説得なら誰にも負けない、と豪語した。

盟友の大平正芳は「田中とは1対1で会わず、複数で会うこと。1対1で会えば必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。

福田赳夫も田中の意見に流されるのを嫌って、1対1で会うことを極力避けていた。

◎大臣には大臣機密費という自分の裁量で自在に使える機密費があるが、田中は郵政・大蔵・通産大臣時代に一度も機密費には手をつけず、「部下の面倒を見なけりゃならんだろう。自由に使ってくれ」とすべて事務次官に渡していた。

官僚が驚いたのは言うまでもなく、特に課長クラスには目をかけ、飲み食いできる金額を人知れず渡していた。

◎田中派ではない村岡兼造が1976年に落選した際、即座に連絡を入れて、「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案した。村岡は考えた末に断ったが、「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再度提案、そこまでされた村岡は話を受け入れた。

間もなくして田中派の行政管理庁長官に就任した議員から村岡へ「秘書官にどうか」と誘いがきた。

『仕事ができなくても肩書だけでもいい』と言うことで
さらに30万円の給料が支給されていたが、これらはすべて田中角榮が手をまわしていたことだった。

落選しても、事務所を二つ持つことが噂となって、見事再建を果たした。こうしたことが有って、村岡兼造も田中角榮の虜になった。  続く

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釈尊のことば123

                釈尊のことば

        123・調子のいい時も悪い時も、心がぶれない。

自分にとって都合のよい情報に触れて万事が順調に進んでいる時も、舞い上がり、調子に乗ることがない。

自分にとって都合の悪い情報に触れて逆境に立たされているときも、落ち込む打たれ弱さがない。

いかなる状況の中でも、心がぶれることなく後ろ向きにならず、

心のぶれを離れて安らいでいられる。

これこそが最高の幸福。
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