yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

追分

2009-12-10 09:08:57 | 歴史
小諸出てみろ浅間にヨー
今朝も煙が三筋立つ
碓氷峠のあの石車ヨー
誰を待つやらくるくると
浅間山さんなぜ焼けしゃんすヨー
裾に三宿(追分)持ちながら、、、以下略

有名な「追分馬子唄」ですが信濃追分宿でのみ「追分節」といわれ民謡の一ジャンルとしての地位を保っています。この地で生まれた追分節は、北上して新潟で越後追分、小木追分となり、山形で酒田追分、秋田で本庄追分となり、北前船で北海道松前に渡り、最後に有名な江差追分にまでなって主に北国で盛んに歌われました。
ところで、追分とは道の分岐点のことです。信濃追分宿は江戸から京に向かう中山道と、そこから分かれて越後に向かう北国街道の起点です。ここには、旧本陣「油屋」があり、昔ながらの建物であり立原道造などの文人に愛された宿があります。
私はかつて東京都文京区の本郷通りの近くに住んでいましたが、ここにも本郷追分がありました。江戸から日光東照宮に向かう御成街道と呼ばれた本郷通りと東大農学部前辺りから分かれて北西に向かう中山道の分岐点が本郷追分です。江戸時代には、この辺りに備後の阿部家の屋敷がありました。阿部家は幕末に老中、阿部正弘などを出した名門で学問好きの家でした。地元福山には誠之館(せいしかん)という藩校があったこともあり、現在でも本郷には誠之小学校という、番町小学校と並ぶ東京屈指の名門小学校があります。また、この辺りには八百屋お七の墓もあります。追分から御成街道をさらに300mほど北に行くと東大追分学寮がありました。「窓は夜露に濡れて、、、」と歌う「北帰行」を作詞した宇田博氏も東大文学部時代にはこの寮にいたと言うことです。この追分学寮は老朽化したため2006年に廃止されました。
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