yoshのブログ

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義に殉じた彰義隊

2008-08-25 10:50:30 | 歴史

明治維新の時、上野寛永寺に立て籠って新政府に反抗した旧幕府の武士団、彰義隊がありました。人数は数千人で多い時には3000人にもなりましたが、1868年5月15日の上野戦争で大村益次郎が率いる政府軍によって壊滅に追い込まれました。<o:p></o:p>

彰義隊は腕に覚えのある幕府旗本を中心とする明日の命も分からない剣客集団でしたので、江戸の町民には大変人気があり、「情人(いろ)に持つなら彰義隊」と水商売の女性たちにもてはやされました。義経袴に水色の打裂(ぶっさき)羽織を着て朱鞘の刀を差してカラフルなスタイルで格好良く、しかも金離れがいいから、官軍と称して西から侵入して来て、無銭飲食して威張りかえっている侍たちとは比較にならないのは当然のことでした。<o:p></o:p>

ただ惜しいかな、彰義隊には将来展望と将来の生命の保証が無く、あったのは命を懸けて徳川家に対して忠誠を尽くすという義を全うする気概だけでした。一応、旗印は輪王寺宮という皇族でしたが、隊全体を統率する有能な人物にも恵まれませんでした。輪王寺宮を奥羽列藩同盟の盟主に戴き、新政府に対抗する北方政権を樹立したいというのが最終願望があったかも知れませんが、戦争を勝利に導くための政略と軍略を持ったりーダーがいませんでした。<o:p></o:p>

上野戦争は近代兵器を持つ政府軍による殲滅戦とも言える無惨なものでした。<o:p></o:p>

幕府側で唯一、政治力のあった人物は勝海舟でしたが、彼は徳川家の安泰存続と自己の保身を優先する人物でしたから、その事にあまりプラスにならない彰義隊を見捨てたようにも思われます。<o:p></o:p>

福沢諭吉も幕臣でありながら、敢えて非干渉の態度を貫きましたが、冷めた態度でした。そして幕臣榎本武揚は、最新式軍艦、開陽丸に乗艦して江戸湾に居ながら傍観していました。その行動は理解に苦しむところです。(勝海舟から手出しをしないよう強い要請があったのではないかと推測されます。)上野に向けて大砲を据えた本郷台(現東京大学)を江戸湾から艦砲射撃していたら、政府軍のアームストロング砲を一瞬の内に沈黙させることができたのではないでしょうか。これを敢行していたら上野戦争の戦況は一変し、大村益次郎は度肝を抜かれ、計画した殲滅作戦は頓挫した可能性がありました。思うに榎本には主家筋や親族が住む江戸の町に砲門を向けることにはためらいがあったのではないでしょうか。しかし、榎本の軍事技術能力をもって敢行していたら本郷台のみを限定攻撃するのは容易にできたのではないでしょうか。大事な決勝戦に手を抜いて敗れ、敗者復活戦の箱舘戦争で同じ相手に敗れたのでは本末転倒です。<o:p></o:p>

 彰義隊の敗北は、関東各地で戦っていた幕府軍には大きな打撃となり、奥羽列藩同盟は危機に陥り、新政府軍の会津進攻を大きく速めることになりました。<o:p></o:p>

榎本武揚は上野戦争の後、彰義隊の生残りを大勢、開陽丸に収容して蝦夷に向かったのですから、上野戦争を傍観したのは残念なことでした。しかし、いつの時代においても戦争の拡大とそれによる不幸は避けるべきですからこれで良かったのかも知れません。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>星 亮一著『われら義に生きる 彰義隊』三修社<o:p></o:p>

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