東京都の新宿と、會津藩との縁について紹介します。それは内藤新宿と広沢牧場です。
内藤氏は、會津藩祖・保科氏と同じく信濃高遠の領主でした。江戸時代には新宿近辺に内藤氏の江戸中屋敷がありましたので、「内藤新宿」が新宿の通称でした。広沢牧場は、幕末に活躍した広沢安任が青森に開きましたが、後に新宿の地にも広沢牧場の出張所を開きました。
広沢安任(やすとう)は天保元年(1830)に會津藩士の次男として若松城下に生まれ、学問優秀につき江戸の昌平黌に遊学し、舎長まで勤めました。藩主の上洛に随行して公用方として活動し、この間に、大久保利通などの諸藩の要人と知己になりました。會津落城のあと、青森県・斗南に移りましたが、農業に適さない土地であったため苦しい生活を余儀なくされました。そこで心機一転して、日本初の洋式牧場を始め、次第に軌道に乗りました。明治19年、安任は、東京豊島区淀橋村角筈(現在の伊勢丹デパート付近)に百間四方の土地を購入、小牧場と居宅を設けて住み、肉牛や乳牛を飼い、牛乳やバターやチーズを販売。いわば食生活の文明開化に貢献しました。道半ばではありましたが、明治24年に62歳の生涯を閉じました。安任の著書の一つ「開牧五年記事」には、福沢諭吉のめずらしい序文があります。「とかく文学者は理論に走り、議論するのみで実行力がない。広沢君は文筆家でありながら、最も困難な牧場経営を空論でなく実行して成果をあげられたことは誠に立派で、心から敬意を表する。諸人は見習うべきである」との大意の文で絶賛しました。
塩谷七重郎 「悲劇の会津人」 新人物往来社
内藤氏は、會津藩祖・保科氏と同じく信濃高遠の領主でした。江戸時代には新宿近辺に内藤氏の江戸中屋敷がありましたので、「内藤新宿」が新宿の通称でした。広沢牧場は、幕末に活躍した広沢安任が青森に開きましたが、後に新宿の地にも広沢牧場の出張所を開きました。
広沢安任(やすとう)は天保元年(1830)に會津藩士の次男として若松城下に生まれ、学問優秀につき江戸の昌平黌に遊学し、舎長まで勤めました。藩主の上洛に随行して公用方として活動し、この間に、大久保利通などの諸藩の要人と知己になりました。會津落城のあと、青森県・斗南に移りましたが、農業に適さない土地であったため苦しい生活を余儀なくされました。そこで心機一転して、日本初の洋式牧場を始め、次第に軌道に乗りました。明治19年、安任は、東京豊島区淀橋村角筈(現在の伊勢丹デパート付近)に百間四方の土地を購入、小牧場と居宅を設けて住み、肉牛や乳牛を飼い、牛乳やバターやチーズを販売。いわば食生活の文明開化に貢献しました。道半ばではありましたが、明治24年に62歳の生涯を閉じました。安任の著書の一つ「開牧五年記事」には、福沢諭吉のめずらしい序文があります。「とかく文学者は理論に走り、議論するのみで実行力がない。広沢君は文筆家でありながら、最も困難な牧場経営を空論でなく実行して成果をあげられたことは誠に立派で、心から敬意を表する。諸人は見習うべきである」との大意の文で絶賛しました。
塩谷七重郎 「悲劇の会津人」 新人物往来社