yoshのブログ

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伯夷 叔斉

2014-06-06 04:54:10 | 歴史
有名な伯夷 叔斉(はくい しゅくせい)兄弟は、殷代末期(紀元前1000年頃)の孤竹国の王子です。儒教では聖人とされています。また一般に「伯叔」というと長幼の序を示します。
伯夷は長男、叔斉は三男でした。父の王は三男の叔斉を後継者としましたので、伯夷は国を出てしまいました。一方、叔斉は兄をさしおいて王になることを良しとせず、兄を追って出国してしまいました。二人が周についた時、文王は既に亡く、武王が戦の支度をしていました。伯夷 叔斉兄弟は、「文王が亡くなって間も無いのに、戦をするのは孝と言えるでしょうか、紂王を武力討伐するのが、仁であるといえるでしょうか」と言って、武王を止めましたが容れられませんでした。武王は戦に勝ち、周王朝が成立しましたが、伯夷 叔斉は周の粟を食べることを潔しとせず、周から離れ、首陽山に隠棲して山菜を採って暮らしましたが、やがて餓死ししてしまいました。死に臨んで次の詩を残したということです。武王が紂王を放伐して天下を制したことを非難し、太古の有徳の王を懐かしんだ歌。「詩経」には載っておらず、逸詩といわれています。

采薇ノ歌
西山ニ登り 采薇スル
暴ヲ以ツテ暴ニ易(か)エ ソノ非ヲ知ラズ
神農・虞・夏 忽焉(こつえん)トシテ没ス 我イズクニカ適帰セン
于嗟(ああ)徂(ゆ)カン 命ノ衰エタルカナ
「訳」

首陽山に登り 山菜をとって暮らす
神農や舜帝、禹王の世は今はない。いずこに行けばいいのか。
天命も衰えた。

伯夷 叔斉の行動は後世の人々に大きな影響を与えました。「論語」と「孟子」にもこの記述があり、司馬遷の「史記 伯夷列伝」にも詳述されています。水戸黄門・徳川光圀公も「伯夷 叔斉」の話に感動し、人生の指針にしたということです。

おじさんのことを「伯父」とか「叔父」といいます。「伯父」は父母の兄を指し、「叔父」は父母の弟を指します。「伯父」が「叔父」より格上です。また、兄弟が多いばあい、最年長を「伯」、ついで「仲」・「叔」、最年少を「季」といいます。甲乙をつけ難い時に
使う「伯仲」という言葉の起源もこの序列が関係しています。

さて、礼節と忠孝と仁義を唱えた、伯夷 ・叔斉・孔子を生み、周辺諸国の手本となっていた中国ですが、この立派な人物を生んだ隣国は、一体、今はどこに行ってしまったのでしょう。現代の中国は、一党・一国・一個人の隆盛だけを善とする国家に成り下がったと言われても仕方のない状態ではないでしょうか。

コメント (1)
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