山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

松浦武四郎という人物に感動する

2017-01-10 23:08:29 | 宵宵妄話

年末から年始にかけて松浦武四郎に係わる3冊の本を読んだ。その1は、佐江衆一著の「北海道人」その2は、花崎皋平著「静かな大地」その3は松浦武四郎自身著の「アイヌ人物誌」である。これらの本を読もうとしたのは、ここ2年夏の北海道行が中断しており、今年は是非とも再開したいと考えているので、その前にもう一度北海道というところがどのような土地であったのかを知ろうとしたのである。蝦夷地と呼ばれていた時代の北海道については、江戸時代以前に関する歴史資料は殆ど残っていないようだ。江戸も幕末近くになってから、諸外国のアジア進出にからんで、国防の観点からようやくその重要性が問われるようになったようである。

蝦夷地の探検といえば、自分の知っている範囲では茨城県(常陸国)出身の間宮林蔵、愛知県(三河国)出身の菅江真澄そして北海道という地名や九つの地域名の名付け親とも言われている三重県(伊勢国)出身の松浦武四郎である。もしアイヌ民族が文字を有していたなら、蝦夷の歴史の解釈が大きく変わっていたに違いないのだが、残念ながら文字を有せず口頭での伝承しかないために、江戸以前の歴史状況などは和人のために根絶やしされてしまったように思える。

3冊の本は、ほぼ同時並行的な読み方をした。先ず「北海道人」を読み、合わせて「静かな大地」を読み、更にそれぞれの合間に「アイヌ人物誌」を読んだ。すると作者の思い入れの違いや、松浦武四郎という人の人間愛というか、アイヌの人々に対するやるせないほどの愛情が読みとれて、感動することが多かった。

北海道はアイヌの人たちの住む世界だった。彼らの暮らし方は、狩猟と採取がメインであり、これは縄文時代の暮らし方に根を置いている。日本国の歴史の中で、縄文時代の文化が占める時間は驚くほど長い。弥生時代に至るまでに数千年以上を有していると考えられている。いわばこの国に住む人間にとっては正統派の暮らし方だったのだと思う。自然を崇敬し、生き物の生命を大切にしながら、家族を大切にする心豊かな暮らしを守って来たのである。狩猟においては勇敢であっても、決して則を超えて生き物の命を奪うようなことはしなかったのである。

それが、津軽の十三湊(とさみなと)から松前にやって来た蠣崎一族が侵入するに及んで、アイヌ民族の不幸が始まったのである。後に松前藩と名乗ったこの和人たちに対して、当初は果敢に戦を仕掛けてこれを排除しようとしたのだけど、和人の巧妙にして卑怯な騙し打ちに何度も遭ううちに、次第に暮らしの基盤を奪われ、隷属化されるようになってしまったのである。幕末近くのそのアイヌの人たちの悲惨な様子は、「アイヌ人物誌」を読めば一目瞭然である。この中には和人の非道ぶりに対する松浦武四郎のやり切れない悲憤慷慨の思いと、その分だけ深い深いアイヌの人たちへの尊敬と温かい思いが記されている。

強者が弱者を見下し、蔑視化して己の優位性を強調しようとする構図は、生物の世界では本能化しているのかもしれない。アイヌの人たちを隷属化させて恰も有頂天となっているような輩は、その多くが強者の世界の中の弱者であり、その弱さを拭うために更なる弱者に対して権力を奮うのであろう。アイヌの人たちは自分たちが元々住む蝦夷地において、愚かな弱者和人の代償目的(=生贄)とされてしまったのである。この構図は日本国においては、薩摩と琉球の関係や日韓併合時代においても共通に見られるものであった。しかし、強者の理論が崩れた時には、今まで虐げられていた弱者側の反発のエネルギーは爆発して止まらないものとなる。それらは過去の世界においても、又現代においても続いている哀しく虚しい闘いの構図となっているようだ。

今現在のアイヌの人たちにおいても、その反発と抵抗のエネルギーはくすぶり燃え続けているに違いない。しかし、韓国や北朝鮮ほどには騒々しくないのは、本来のアイヌの人たちが持っていた優しく温和な人間性に拠るものなのかもしれない。和人との同化が進んだからという側面があるのかもしれないけど、自分的にはそう思いたくはない。

アイヌの人たちの暮らしぶりについては、二風谷(沙流郡平取町)の町立アイヌ文化博物館や萱野茂二風谷アイヌ資料館を訪ねて、一応の理解はしていたつもりだったけど、これらの本を読んでかなり認識が変わったように思う。もう一度アイヌの人たちの暮らしの様子を再訪してしっかり確認する必要があると思った。上っ面の理解で済むような話ではないということを、この3冊から厳しく学んだような気がする。

それにしても、いつも思うのだが、松浦武四郎という人物のこの逞しき不屈の旅のエネルギーはどこから生まれるのであろうか。江戸末期の偉人たちの行動はどの人物もエネルギーに溢れているのを思い知らされるのだが、未開の地に在って北海道を隈なくといっていいほどに訪ね歩き、又その膨大な記録を残すパワーには驚かされ続けるのである。間宮林蔵や菅江真澄という人たちのエネルギーも大したものだと思わずにはいられないのだが、この松浦武四郎という人物の北海道に対する愛郷ともいうべき思いの大きさは、何よりもアイヌの人たちへの思いに支えられて発露されたに違いない。

北海道は、今なお今日においても先ずは暮らしの先達としてのアイヌの人たちを理解することから始めなければならないのだと思った。それがこの三冊を読んでの感想の全てである。

 

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