どうもこの、最近の、春になりかけの3月半ば過ぎの季節というのは苦手で、何ごとも起きていないのに、泣きぬれる時間が多いのに閉口しています。厚かった面の皮にも無数のひびが入り、それが皺となって定着する上を流れる涙なんぞという奴には、老人はただただ閉口するばかりです。
涙というのは不思議な作用があるようで、悲しみなど無くても、泣きぬれている内に、何故か悲しみに係わるできごとなどをやたらに思い出すようになります。時あたかも東日本大震災発生後5年を迎え、様々な報道の中から無限とも思える絶望感や途方もない悲しみにたたずむ人たちの横顔が、流れ出る涙の向こう側にクローズアップされてくるのです。あれから1827日(43848時間)以上が経ったというのに、復興は遅々として進まず、被災された当事者の方々の悲しみは、花粉などで流す涙とは全く違って、心の深い淵の中から途絶えることなく湧き続けているのかもしれません。
泣きぬれているのが続くと、やがて気持は怒りに転化するようです。この季節の泣きぬれる遠因は、人間の環境破壊に対する樹木たちの報復活動にあるように思っているのですが、それはすなわち樹木たちの憤怒がもたらしているものなのでしょう。そのことに対しては何の怒りも覚えないのですが、彼らの憤怒の心情に乗って怒りを覚えるのは、大震災の中で地震の災害よりもはるかに深刻な災害をもたらしている原発事故の事後処理に対する怒りです。
原発事故の事後処理の最大のものは、今後一切の原発を取り止めるという意思決定であり、その代替案を早急に創出してゆくことにあると思うのですが、その方向は完全に閉じられ、無策のまま時が問題を鎮めるのを待っている感がします。歴史の現実とはこのようなものの積み上げなのかと、飽きもせずに勝手に流れてくる涙にうんざりしながら、怒りを反芻しているこの頃です。
3月のこの季節は、わが身にとっては思考停止の時間となるのです。薬を飲めば一時小康状態にはなるのですが、しばらくすると再び潤んでくる目と怪しげな鼻水に浸蝕されて、思考は錯乱し、寝床にて安静を貪るということになるのです。今しばらくはブログどころではない、厳しい時間が続きそうです。
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