山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

八ッ場ダムと国政不信あれこれ

2013-08-15 05:27:00 | 旅のエッセー

八ッ場ダムと書いて、やんばダムと読む。これを初めて見て正解を読み当てる人は、知っている人以外はいないと思う。「ッ」を「ン」と発声するなんて、一体日本語という奴はどうなっているのかと思うほどの難しさだ。しかし、このダムについてはかなり有名だ。だから読み方を知っている人も多いはずだと思う。

昨年春、熊本県の五木村を訪ねた時、川辺川ダムについての村の方々の悲壮な思いを知った。民主党が政権を担当した時に、ダムの建設が途中で中止となった。その対象に川辺川ダムも含まれていた。川辺川ダムの場合は、四半世紀以上の長い年月をかけての闘争の結果、五木の村の人たちは下流の人たちのためにと、涙を飲んでダム建設に同意したのだった。国道脇の湖底を見下ろす場所に、その思いが「新たなるふるさとの建設をめざして」という記念碑に刻まれていた。しかし、自分たちが訪れた昨春はダムの建設は中止され、湖底から移った新しい集落が山の中腹を走る国道に沿って出来上がっていただけだった。ダム建設が取りやめになって、安堵し喜んだ人は一人もいないという雰囲気だった。村びとの話では、ダム建設の取止め宣言をした往時の国交大臣が、止めた代わりに新しい橋を架けると約束し、その建設が進んでいたけど、それが村にとってどれほどの必要性があるのか、さっぱり見当もつかなかった。酷い話である。政治に振り回された五木村の人たちのやりきれない憤怒と虚しさ感が伝わってくる現在の村の景観だった。

確か同じ状況に置かれた、この八ッ場ダムはどうだったのだろうか。先日久しぶりに群馬県のその建設予定地辺りを通ることになった。信州の霧ケ峰・美ヶ原高原を訪ねた後に、北軽井沢から草津温泉に向かう辺りを通過し、その後吾妻川に沿っての国道145号線を通って帰宅の途に就いたのだが、途中から以前とは全く違う道となっているのに気がつき、そのあまりの変化に驚かされた。谷間に沿って走っていた道路が、知らぬ間に山の中腹を走るようになっていた。4~5年前に来た時には、その谷間を這う川に沿って、川原湯温泉への入口などがあり、その先に天空とも思える高さに何やら道路なのかダムの基礎の一部なのか、コンクリートの巨大な建造物が見られたのだが、今回はそのような景色はどこかに消え去っていて、いつの間にか温泉のあった場所は100m以上も遥か下方に見えていたのだった。よく考えてみれば、あの天空に聳えているかの如き建造物は、先ほど走って来た新しい国道145線のバイパスやそれにつながる道路の橋桁だったのだ。いやあ、驚いた。そのバイパスの脇に新しく出来た道の駅に寄って一息入れたのだが、何だか不思議な景色を見ている様な気がして、落ち着かなかった。

まさにあっという間に新しい道路が造られ、まるでずっと昔からそこにあった様な景色が生み出されて広がっているのである。このあと数年もすれば、それは八ッ場ダム建設の抗争に拘わった人たちの思いとは無関係に、当たり前の景観となってしまうに違いないなと思った。ここ数年の間にどのような展開があったのか知らないけど、八ッ場ダムの場合は、工事は止まることなく続いていたということなのであろう。民主党政権の主張するダム建設中止を巡っては、地元のみならず下流の利根川水系に係わる各都県自治体が中止反対の声を上げていたけど、結局はそれが通ったということなのであろうか。未だにその後の経過については、自分にはよく解らない。

五木村の川辺川ダムの場合は、国と熊本県のみの関わり合いだけなので中止が可能となったようけど、八ッ場ダムの場合は規模も大きく、関係する県や都などの影響も大きいので、政治の気まぐれは通じなかったということなのかもしれない。とにかくこれほどに景色が変わってしまっているのだから、今更中止など不可能ということなのであろう。この大きな環境の変化が、地元の人たちに対して一体どんな影響をもたらしているのか、その功罪を計るすべもない。

 

このところの政治・行政の動きというのは、下部から上部へ行くほどそのデタラメ感は大きくなっている感じがする。市町村の役所の現場は、住民に対するきめ細かい配慮がそれなりに感ぜられて、さほどの不満もないのだけど、これが上部になるにつれて、濁りが悪を含んで膨らむように、国民の思いからは乖離して行く感じがする。それが最も顕著に感じられるのは、東北大震災に絡む復興に向けた諸施策展開の現状ではないか。例えば、福島第一原発のその後の対応を見ていると、東電には最初から当事者としての対応能力が無いのを知りながら、国策的に進めて来た原発事業を、東電の大株主となった国・政府は碌に手も出さずに放置したまま、放射能まみれの冷却水を海に垂れ流しさせ続けている。こんな無責任が許されていいのか。もはや東電を非難しても始まらない感がする。

事故処理の深刻な状況を省みもせずに、その一方で、政府は原発事業を海外に輸出するのに力を入れている。そして国内の既存原発については、将来のビジョンも持たないままに、何とか再稼働にこぎつけようと、当面の手当てにあくせくしている。国の最高責任者は、再稼働のためには安全の確保が第一などと言っているけど、それは場当たり的な飾りことばに過ぎず、抜本的な安全が何なのかなどには全く触れていない。今の科学力では、原子力の負の恐怖を抑えることは不可能であり、抜本的な安全とは、原発を無くすことしかないのは明らかである。このままで行くと、今稼働を見合わせている原発は、間もなく全てが再稼働が開始され、それに連れて本物の安全に裏打ちされたエネルギー政策は後戻りを始めるに違いない。

その結果、東北大震災を超えるような一大天変地異が現出して、稼働中の原発が東西に亘って10基以上もいっぺんに破壊されるような事態が発生したとしたなら、一体どうなるのだろうか。この国は破滅するに違いない。その後で、ようやく原発の全廃止を決心するとしても、もはや手遅れであることは疑う余地もない。本当の未来を考えない政治や行政が、国のてっぺんに鎮座しているというのは真に哀れで悲しいことではある。

原発だけではない、復興予算に蝿や蚊のようにすり寄り集まる役人や団体は、復興の名を借りて様々な悪事を積み上げている。総予算の半分近くが未だ正しく消化されていないという話も聞く。被災の現地にはその恩恵の何も届いていない場所が幾つもあるという。これは地方行政の怠慢ではなく、明らかに県や国の上層部、そしてそれを取り巻く雲霞のごとき亡者どもがチマチマと金を毟り取ろうとして害を及ぼしているからであろう。

このところの政治不信は絶大なものがある。自民党も民主党もその他の政治集団も、皆口先ばかりであり、能力の低下した官僚に振り回されるばかりのようだ。老人が偉そうに政治や経済のあり方に口出しするのは、天に唾して身の恥を晒すようなものだと心得て、これからはこのようなことを書くのは止めようと思っていたのだが、巨額の金が動いた八ッ場ダムや川辺川ダムの現実を見てみると、これらに関わる悪の様々について吠えないわけにはゆかないなと思った。

最近の政界の中で、てっぺん近くにいる人物の驚くべき言動が幾つかあった。失言は政治家にはつきものだが、発言の前後の文脈を踏まえて捉えてみても、愚というよりも下の下としか思えない貧困な時代感覚しか持ち合わせていないように思えた。一つは元民主党党首で総理も務めた鳩山由紀夫氏の中国でのおべんちゃら発言であり、もう一つは元総理を務め、現在は副総理と財務大臣という重要ポストに就いている麻生太郎氏のナチス発言である。両者とも国際感覚の欠片(かけら)も持ち合わせていないかのごとくだ。前者の発言は日本国の歴史の真実と立場を失った国賊的振る舞いだし、後者はお粗末な思い上がり発言で、過去と現在の時代背景を理解しないまま混同して、勝手に当然化している感じがあり、世界を驚かす時代錯誤の発言である。要は、改憲についてはガタガタ言わないで黙って見ていてくれろ、ということなのだろうけど、よりによってナチスなどを引き合いに出すとは、一国の総理を務めた人物の発言とは到底思えない。直ちに下野すべきではないか。前者は既に野に下って何の影響力も持たない携帯用スピーカーになり下がっているから、大して危険でもなさそうだけど、後者の方は思い上がっているゆえの本心だろうから、これは恐ろしい。それを知りながら、敢えてコメントを濁している自民党も政府にも信頼感は急減するばかりである。又、対抗する立場からこれらを批判追求すべき民主党や維新の会他の政党も、動きは鈍であり、凡そ期待など持てない。こんな状況なので、政治はますます国を混乱させ、国民の投票行動を虚しくさせるのであろう。尤も、政治家や政党にとっては、選挙の結果だけが大事であって、その中身や背景など大義名分づくりには何の問題もないということなのかもしれない。

現政権になって、経済活動が上向きになり、日本を取り戻し始めたなどというのは幻想にすぎない。改憲がまな板に乗せられているのは当たり前かもしれないけど、それを料理した後のビジョンは不明確だ。一体、今、この国がどんな人間の集まりとなっているのか、政治家はその人々の深奥に潜む思いの本質部分に触れる努力を、もっともっとするべきではないか。今回の参院選挙は、国民の過半数が辛うじて投票に参加し、その結果を表わしたに過ぎず、今の選挙制度が本当に民主主義を反映しているとは到底思えない。選挙は区割りなどの問題よりも投票に参加する気になるような、抜本的な制度に改めることが最大の課題ではないか。投票しない4割を超える国民の大半は、選ぶべき人を得ていないという現実にうんざりしているのであろう。

あれこれ思いは果てもなく広がって、八ッ場ダムの話からとんでもない方へとすっ飛んでしまった。まだまだ言いたいことは幾らでもあるのだけど、もう止める。老人の強がりは天に唾することと同じで、やがて我が身に倍返しとなって戻って来るかも知れない。何はともあれ、この国を動かすためにてっぺん近くにいる人たちは、しっかりした未来ビジョンと、国民の現状を深く洞察して、国民を不安と危険に陥れ、路頭に迷わせないように、強い信念を持ってことに当たって欲しいと思う。思いつきの政治だけは排除して欲しいと願う。  (8.3.2013記)

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