山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

高度1950mの一夜

2013-08-21 02:13:18 | その他

  このところ絶えることなく灼熱地獄の毎日が続いており、連日何人かの犠牲者が出ているとの報道が止まない。その大半は老人であり、熱中症の警告が出てもそれが届かず、従わないのは、今の異常な暑さに気づかず、過去の経験の範囲で捉えている感覚が心のどこかに頑固に居座っているからなのかもしれない。エアコンを取り付けていながら、それを使わずに熱中症であの世に旅立つなどというのは、その証明のようにも思える、哀しい出来事である。

 今年の猛暑は、7月の初めにも押し寄せており、その時の暑さにうんざりして、ちょうど開花の最盛期を迎えていると聞くニッコウキスゲなどを見ようと、久しぶりに信州の霧ヶ峰、美ヶ原高原に出掛けたのだった。この時に泊った美ヶ原高原の道の駅の一夜のことを話して、あれから1カ月経って、日中の外出もままならぬほどの猛暑に耐えなければならない心の慰めにしたい。

 

茨城県の南部に位置する守谷市の高度は、僅かに海抜27mである。幸い太平洋岸からは70kmほど離れているので、どんな大規模な津波が来ても、ここまで押し寄せてくることは、まずなかろうとは思う。しかし、利根川とその支流の小貝川や鬼怒川に囲まれているので、川を伝って激震の波が逆流してくるようなことがあると、何らかの被害影響は避けられないのかもしれない。もしこの地が沿岸近くだったら、市街全体が津波の餌食になるに違いない。恐ろしいことである。この海抜27mというのは、気温と高度との関係で考えると、高度が100m上がるにつれて気温は1℃下がるというから、0.2℃くらいの影響力しかないことになる。

 その守谷市を離れて、暑さを逃れるために先日行った霧ケ峰高原は、標高1800mほどあり、泊った美ヶ原高原の道の駅:美ヶ原高原美術館は、何と1950mを超える高所に造られているのである。日本一高所の道の駅というのは、疑いもない事実である。前述の理屈から言えば、守谷市に比べて1923mも高い場所にあり、従って、気温は19.2℃も低いということになる。これはかなり優秀な冷蔵庫の能力に等しいと言えるかもしれない。

 先日高原に向かった時は、この気温差のことをあまり深く考えなかった。とにかくどこへ行っても暑いし、霧ケ峰高原への入口である長和町の道の駅に泊った夜も、夕刻になってもかなり蒸し暑かった。夜中に一雨来たのが幸いして、その後にようやく涼しくなったという按配だった。家を出る時には、半袖の着替えの他に念のために長袖のTシャツなどもバッグに入れたつもりだった。出発のドサクサの中で、しっかり確認もせずに、この暑さなのだから、高原で涼しいといっても、それほど大したことはなかろうとタカをくくっていたのである。

 翌日、霧ケ峰高原の車山の下方のニッコウキスゲのお花畑を見て歩いた時は、暑さはさほど感じなかったが、それでも日射しが厳しいので、日傘などを取り出しているご婦人も何人か見られて、がっかりしたりした。その後、八島湿原に行って木道を散策した時は、更に日射しが強くなっていて、これはかなりの暑さだった。下界の守谷市辺りから比べれば相当に涼しいのは分ったのだが、それが20℃近くもの差があるとは到底実感できな暑さだった。直射日光というのは、高度の理屈を超えた暑さを含み持っているのであろう。その昔、熱の伝わり方に輻射・伝道・対流の三つがあると学んだけど、高原のこのような場所でも暑いというのは、一体熱のどの性質が影響しているのか。暑くなるといつもそのようなことを考えたりしてしまう。

 さて、その夜は理想の安眠を求めて、ビーナスラインを走って高度2000mを超える地点を通過し、少し坂を下って目的の道の駅:美ヶ原高原美術館に着いた。ここに来るのは二度目である。高原美術館は、絵画の展示場ではなく、高原の大自然の中に造詣の美を競って、様々な形や彩(いろどり)をもった作品が数多く展示されているのである。全作品を丁寧に見て回ったら1日以上かかるに違いない。作品の点在する高原の展望は、遥かに北アルプスの山々や立山連峰、中央アルプスや南アルプスの峰々などが望見出来て、日本列島本州の背骨のつくり出す大自然の一大パノラマを、そのまま俯瞰できる、滅多にない贅沢な環境なのである。日中の暑さに雲が湧いたせいなのか、その日の夕方の景観は少し霞んでいて残念だったけど、そのスケールの大きさは、暑さに閉じ込められて家の中でチマチマした暮らしを余儀なくされていた、我が心を解き放してくれるのに十分だった。

 日が沈んで夕食時になると、涼しさは一気に増して、ビールを飲むにも差支えるほどのレベルになり出した。こんな時には早く寝るに限ると、喫食の後はTVを見るのも止めて、寝床に横たわった。寝入り端は良かったのだけど、さて、しばらく経つとまあ、寒いのである。寒くてたちまち目覚めたのだった。まだ22時を少し過ぎた時刻だった。確か家でいつも身にしているトレーナーを持参した筈だと、起き出してバッグの中を探ってみたのだが、無い。車に運び入れるのを忘れて来たようである。それじゃあ、長袖のTシャツがあるはずだと探したのだが、これも無い。何しろ家を出る時には猛暑の中だったので、入れたつもりが引出しの中に置いたままだったようで、持って来たのは皆半袖ばかりなのである。勿論掛け布団などは最初から持参していなかったし、予備の毛布も置いて来てしまった。出発前までシュラフを車の中に3個ほど入れていたのだが、邪魔になるからと、これらも皆家に置いてきたのだった。暖をとれるような着衣は皆無なのだった。いやあ、参った。

こんな時に慎重派の相棒は、上掛けの布団もちゃんと持参しており、タオルケットのようなものも用意していた。取り敢えずそれを貸して貰って身にまとったのだが、とてもとても、その夜の寒さを防ぐには不十分だった。特に下半身の方が寒くて、こちらの方は夏の風よけ用の薄いオーバーズボンを持参していたので、それを履いて寝ることにしたのだが、さほど寒さよけに役立つものではなかった。

 あれこれと何とか寒さに耐えようとその対策を考えたのだが、どうしようもなかった。気温は15℃くらいにはなっていたのではないか。対策の手だてが無ければ、あとはとにかく我慢するか、諦めて寒さを味わうしかない。まさか、凍死するということもあるまいと開き直ることにした。こうなると案外と諦めの利く方で、薄っぺらなタオルケットを身にまとって、朝までじっと我慢の時間だった。うつらうつらするものの、眠りに入ろうとすると寒さがぶるっと身を揺すって、目を開かせるのである。隣の相棒は、いとも快適そうに白河夜船のご機嫌の様子だった。この差が、人生における油断の差という奴なのであろう。今までそれほど開けっ広げに油断なしでここまでやって来たわけではないのだけど、自分にはこの種の油断は数え切れないほどあって、相棒からはいつも呆れ返られている。寒さに震えながら、明け方までその油断の報酬をあれこれと味わい、反省し続けたのだった。

 4時少し前には起き出し、車の外に出た。寒い。夜の名残りの星が空に煌めいていた。試しに温度計を出して計ってみると、10℃を切っていた。外気がこれくらいなのだから、車の中はやはり15~6℃だったのだと思う。守谷市などの下界は、熱帯夜レベルに違いないのを思うと、何だか優越感が膨らんで、昨夜の寒さに震えたことなどは、どこかへ飛んでしまったようだ。間もなく日が登るらしく、東の空の方がほんのりと赤みが射して来ていた。大急ぎでカメラを取りに車に戻り、御来光の良く拝める場所へと急ぐ。既に何人かの人たちがカメラを据えて日の出を待っていた。遠くの青黒い山々の頂きの連なりの手前に、幾重もの雲海が横たわっていた。それらの山の一点が赤く染まり膨らみ出すと、しばらくして、そこから黄金色の光が放たれて、幾筋もの光の線が空を彩った。御来光である。この景観は何度見ても神秘的であり、荘厳である。太陽信仰は人間の本性と深くかかわっているのではないかと、これを見る度に確信する気持ちになる。

     

道の駅:美ヶ原高原美術館の駐車場から見る御来光。ここは標高が1950mもあり、澄んだ空気の彼方から上がって来る太陽は神秘的だ。

 それにしても、車からちょいと出て、これほどの高さから御来光を拝めるなんて、何という贅沢なのだろう。普通ならば、終日汗をかいて登った山小屋か、足場の悪い山頂などでしか味わえない景観が、目前に広がっているのである。昨夜の出来事などは、いっぺんに忘れ果ててしまう感動の時間だった。何枚かの写真を撮った。

   

美ヶ原高原美術館からの展望。雲海の手前の建造物などはアーティストたちの作品である。雲海の彼方に連なる山々は、アルプス銀座の山々なのかもしれない。一瞬方向を忘れてしまうほどの広がりである。

その後、近くの牛伏山(1989m)への散策道を往復した。薄く霧がかかった身の締まる寒さの中だったが、ウスユキソウ(=エーデルワイス)やアサマフウロなどの高山の花がひっそりと咲いていて、それらの美しさに、何とも満たされた時間だった。しばらくして車に戻ると、ようやく相棒も行動を開始し始めたようだった。

   

牛伏山への散策道脇にあったミヤマウスユキソウの一株。まだ開花期に至っておらず、蕾さえも膨らんでいなかったのが残念。

 数日前まで外出も控えるほどの暑さに見舞われ、クーラーなしには眠れなかった下界の暮らしからは、想像もできない一夜の体験だった。今年の夏は、この経験を生かして、この先の暑さに耐えることにしようと思った。「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、武田氏の菩提寺でもある恵林寺で、信長軍の焼き打ちにあって焼死した快川お尚の辞世の一語としても有名だが、1950mを超える高原の一夜で味わったこの寒さは、生身の体験であり、そう簡単に忘れるはずもなく、思い起こすのに手間もかからない。今年はこの体験を生かしながら酷暑を乗り切ろうと思った。 (7.29.2013 記)

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