原発事故の発生以来、ずっと気になっていたことが幾つかあります。その中の一つが、事故の発生当時から現場で直接作業に従事していた人たちへの対応の在り方です。放射能という目に見えない恐怖にさらされた現場で、明確な手立てもないままにそれこそ命がけで指示された作業に取り組んでいる人たちの食事や睡眠に対する取り計らいが極めて劣悪である、という報道を目にし耳にする度に、どうしてそんなことがちゃんとできないのかという疑念を抱き続けてきました。
それが、昨日のニュースでとうとう死亡者が出たという話です。死因は心筋梗塞の可能性があるとのことですが、状況から察するに現場では相当なストレスを感じながらの作業だったのではないかと思われます。普段何でもない人であっても突然の発作に見舞われることはありうるわけですから、このような作業環境の中では層倍の発生の危険性があることは容易に予想できることではないかと思われます。
報道によれば発作で倒れた以降の対応が全くなっていないように思います。救急車に乗せるには警戒区域外まで出る必要があるだとか、勤務医がたった一人で且つ勤務時間もたった6時間であるとか、不在の時は東電社員の医療班が面倒をみるということなのですから、一体この管理体制はどうなっているのかと疑問を通り越して腹が立ちます。
東電も政府もこの厳しい環境で命を懸けて働いている人たちをどう考えているのか、少しばかり高い賃金で働かせさえすれば、あとは本人の自己責任だなどという考えで済ませているのでしょうか。全く理解できません。
こんな時、こんな環境であればこそ、直接作業をする人たちに対しては、健康や安全に関しての万全の態勢を早急に構築するべきでしょう。放射能の計測器すらも足りないとか、ニュースの端々ではなんともはや抜けの多いことなのか。これが優秀な人材の集まっていたはずの超一流企業とはとても思えません。混乱の中では多少の抜けはやむを得ないとしても、事故の収束に係わる人たちの中から絶対に死者を出してはならない、という使命感というのか、覚悟というのか、そのような気迫が真に以って欠如していると言わざるをえません。
また、これを管理する国という立場の政府においても、口先ばかり、小手先ばかりの取り組みが目立ち、国を挙げての叡智を集中しての取り組みが見えない感じがします。やたらに組織を作ったりして恰好はつけようとしているようですが、実態が見えずそこに本当の叡智が集められているのかも不明です。事故の収束作業に係わる人命が一つ失われたことに対して、政府は誰がどのような課題を見出しているのか、今後どう対処しようとしているのかさっぱり見えません。
怒り心頭に発しています。格好いいことを言ったり、責任回避の言い回しを考えてばかりいるようなリーダーやその下のカバン持ちは、全員が防護服なしで、原子炉の建屋の視察でも行ったらどうかと提案したいくらいです。安全を強調しながら、自らはいつも現場から遠くにいて危険を避けているような連中に、人間の本当の痛みや厳しい現状が解るのかと言いたいのです。
危険エリアで働く人たちは、ただ金が欲しいからというだけで敢えて危険をも顧みずに仕事をするだけではないと思うのです。誰かがやらなければならないことだから、自分がやってやろうじゃないかという使命感も帯同しているはずです。自殺志願者だけが危険作業に係わっているわけではないのです。だから一人といえども死なせてはならないのです。
それなのに死なせてしまった。この罪は重いと思います。東電も政府も猛反省すべきです。何というざまなのだという国民の怒りの思いを受け止めるべきです。この事件は断じて偶然などではありません。原発事故という人災に輪をかけて発生した更なる人災です。こんなことを続けていたら、事故の収束に必要な労働力が集まるわけがなくなります。放射能が人を殺す前に、人間の怠慢が人を殺しているのです。
東電も政府も同じ穴の狢(むじな)であることは、どう繕ったって国民の殆どが承知のことです。補償の問題も重要ですが、何よりもまず喫緊(きっきん)の要事は、原発事故を収束させることなのです。事故は今でも継続中であり、もしかしたら拡大中なのかもしれません。それを止めるために直接現場で働く人をもうこれ以上絶対に殺してはならないのです。必要なことは万難を排して断行する。政治家もリーダーもそれができないのなら、さっさと座を退くべきです。有言不履行はもとより有言実行も不要。必要なのは不言実行の誠意です。
東電と政府に改めて、「喝!」です。
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