最近あまり本を読んでいない。否、読まない日はないのだが、新しい本を購入して読むことが殆ど無かった。こりゃあいかんなと気づいて、本屋に行って棚を眺めている内にAIについて書かれている本が目についた。AIというのは、勿論「Artificial Intelligence」のことであり「人工知能」と呼ばれているもののことである。その理論はさっぱり解らないくせに、このテーマが騒がれ出した頃から妙に関心があり、最近は携帯電話などのメールを使っている際に、文章作成の中でそれが使われているのを実感したりしている。また、ネット社会の中では、広告や宣伝の中にそれがかなり浸透して来ているのを煩わしいと感じたりしている。
買った本は、「AIの衝撃」というタイトルで、副題に「人工知能は人類の敵か」とあった。小林雅一という方が書かれたもので、講談社現代新書の中の一冊である。眠り薬的に毎晩少しずつ読んでいるのだが、時々やって来る孫娘が、いつもは枕元のスタンドの減光スイッチをいたずらするだけだったのに、何と自分の寝床の中でこの本を真面目な顔をして読んでいるポーズをとっているのを見て驚いた。未だ2歳になってそれほど経っていないのに、まあ、随分と時代を先取りしているようなのである。勿論字も読めないし、書くこともできないのだから、中身が解る筈もない。
しかし、ふと思った。この子たちが成人する、18年先ごろには、この本に書かれているかなりの部分が現実のものとなってこの世を支配し、この子たちも恩恵を受けたり被害を被ったりしているに違いない。その時に自分が生きている可能性は極めて低いのだけど、もし生きていたとしたら、明らかにこの世に取り残された仙人となっているに違いない。と。
人間がAIを有するロボットや機械装置などに支配されるということは究極においてはあり得ないとは思うのだけど、しかし、AIが自ら学んで成長するという機能を保有するとなると、一般大衆の中には知らぬままに支配されてしまう人間が相当存在することになるに違いない。勿論AIのもたらすものが人間にとって有効で価値あるものならば何の心配もないし、むしろ歓迎すべきものであろう。しかし、それが行き過ぎとなると、今度は人間社会を混乱させ、人間そのものを退歩させることにつながって行くような気がする。
この本の中に将棋の電王戦のことが書かれていたけど、AIが進化するにつれて、人間の勝利はおぼつかなくなるに違いない。当然のことながら、過去の人間が考え出した全ての次の一手を一瞬に計算して、その中からベストを選ぶ機能を身につけている機誡装置に叶う筈はなく、更にその装置自体が自ら手を読むことを学んで進化して行くのだから、これはもう人間としては、まさにお手上げで処置無し、ということになるのだと思う。AIの進化が人間の脳の機能と連動して自ら学ぶということを備え始めると、自ら学ぶことを忘れている人間が取り残され、機誡装置に支配されることは明らかであろう。
しかしこれらのことは、一般大衆にとってはどうでもいいことであり、研究者レベルの大きな課題となるのであろうが、その研究開発者が道を誤ったり、或いは悪用する者が現れたりすると、世の中は取り返しのつかない混乱に陥ることになるのではないか。現在ニセ電話詐欺などの事件が多発しているけど、もしAIを悪用して詐欺行為を成功させる方法などを開発したりしたら、この世は疑心暗鬼で満たされたものとなってしまいかねない。自動車のAIによる自動運転装置の開発は、既に現実化直前まで来ているとも聞いているけど、例えばマイカーを含めた全ての車が無人で動いているような世の中が、本当に未来の人間を事故などの無い豊かで平和な世界に導くとは思われず、逆に様々な人間性の劣化が表出して来るような予感がする。機械装置を支配していると思いこんでいる人間が、知らぬ間に逆に立場が逆転していて、装置が故意に人間に害をもたらすような働きを身につけるかもしれないのである。勿論どこかに人間に対する安全装置のようなものが組み入れられるのであろうけど、それだけで全てが大丈夫とは到底思えない。善には限りがあるけど、悪には限りが無いというのが、この頃の自分の人間観である。
AIで最も恐ろしいなと思うのは、人間の脳の機能を活用して、人間以上にAIが己の脳(相当)機能を発達させる力を身につけつつあるということである。今のところ、AIが人間と同じような身体をつくり上げるという所までは行っていないようだが、仮にたった1台でもそれを備えたロボットが完成したとしたら、やがてはそのロボットが分身を増やし、この世を人間にとって代わって支配することにもなりかねないのだ。SFの世界が本物に近づくのは恐ろしい。人間の進歩の歴史は空想から始まったのかもしれない。その空想が辿りつく究極の向かい先が、人間に代わる別の物体を用意することにあるとしたら、それは人間が人間であることを放棄することに外ならない。
考えればきりのないことなのだが、自分がまだ幼かった60数年前には、田舍の道を走る車は殆どなく、時々やって来るトラックは小さくてしかも木炭を燃料として走っている物などがあって、子ども心にももう少し世の中が良くなって暮らしが楽になり、マイカーなどが手に入ったらいいなあ、などと思ったりしたものだった。それなのに、今の世は、それらの夢を遥かに上回るものとなっている。あらゆるものが便利になり、人間は1日24時間という時間に不足感を覚え出しているようだ。
しかし、冷静に考えてみると、物質面では豊かになってはいるけど、心の面ではむしろ貧しさが増している感じがしている。もしAIというものが心の貧しさを補うという働きをしてくれるのであれば、大歓迎なのだが、現在のところそれは手づかずの様で、更なる利便性を求める方向にばかり向かっている感じがするのである。
この本一冊だけを読んで、AIの全てが解ったなどとは到底言える話ではないけど、今感じているのは、AIというのは、人間が創り出した得体のしれない怪物であり、果たして人間をどこまで幸せとやらに導くものなのか。不気味な疑念は高まるばかりである。