不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

爆心地で思ったこと

2012-12-16 05:37:20 | 旅のエッセー

 

 長崎市を訪ねて、何よりも真っ先に思うのは、やはり原爆のことである。広島を訪ねてもその思いは変わらない。観光とかいう前に、一瞬にして生命を奪われ、重大な傷を負った十数万という人たちのことを忘れることはできない。戦争という忌まわしい人間の愚行の果てにあるものが、このような形で示されている、その地を忘れてはならないと思う。長崎の旅では、その原爆投下の爆心地近くに造られている平和記念公園の地下にある市営駐車場に車を留めて散策をしたので、その思いは一層強いものとなった。

車を停めた後は、直ぐに平和公園に向かった。公園の中にはたくさんのモニュメントが作られ、残されている。その中で最大のものは何といってもこの公園のシンボルでもあり、市民、県民、いや国民全体の平和のシンボルでもある平和祈念像である。記念(=メモリー)ではない。祈念(=祈り)なのである。祈りの心であり、深い思いの積もり積もった象徴なのである。

   

長崎市内、平和公園の平和祈念像。この像は長崎県島原出身の彫刻家、北村西望の製作によるものである。

 祈念像の傍には二つの思いのことばが書かれていた。一つは祈念像を建立されたの方たちの代表としての往時の長崎市長のことば。もう一つは像の製作者、北村西望氏のことばである。それらにじっくりと目と耳を傾けたい。

 

平和祈念像建立のことば

昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾がこの地上空でさく裂し、方五粁一帯を廃きょと化し、死者七万三千余、傷者また七万六千余におよんだ。

哀愁悲憤の思いは、今もなお胸を裂くものがある。

私ども生き残った市民は、被曝諸霊の冥福を祈り、かつ、この惨禍が再び地上にくり返されることを防ぐために、自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、その象徴として、この丘に、平和祈念像の建立を発願した。

かくて、私たちは、平和祈念像建設協賛会を組織し、内外の熱烈な協賛のもとに、昭和二十六年春、工を起こしてより、ここに四年、念願の像を完成し、序幕の式を挙げた。この日、原爆十周年の前日である。

私は、三十万長崎市民とともに、この平和祈念像が、万人に仰がれ、世界平和の保持に大きな貢献をなすものと信ずる。

     昭和三十年八月八日  長崎市長 田川務

 

平和記念像作者の言葉

あの悪夢のような戦争

身の毛もよだつ凄絶悲惨

肉親を人の子を

かえり見るさえ堪えがたい真情

誰か平和を祈らずにいられよう

茲に全世界平和運動の先駆として

この平和祈念像が誕生した

山の如き聖哲

それは逞しき男性の健康美

全長三十二尺余

右手は原爆を示し、

左は平和を

顔は戦争犠牲者の冥福を祈る

是人種を超越した人間

時に仏  時に神

長崎始まって最大の英断と情熱

今や人類最高の希望の象徴

  昭和三十年春  北村西望

 

いずれのことばが重いかは知らない。悲しみや恐怖よりもこれから先、平和の世界をつくることを目指して、より強く生きて行くという強い意思をこれらの碑文から感じたのだった。戦争と平和という相矛盾するテーマをずっと追い続けて来た人類は、今でもその自縛作用から抜け切れることが出来ず、平和を唱えながら世界各地で様々な名目での殺りくと破壊を繰り返している。人類最高の希望の象徴たるこの平和祈念像は、その愚かな繰り返しの現実をどのように見、思っているのだろうか。願いと現実とのギャップの大きさと深刻さを思いながらそこを後にしたのだった。

   

原爆で吹き飛んだ浦上天主堂の鐘楼の一部。この残骸一つを見るだけでも、その威力のもの凄さと、生きもの全てが抱いた恐怖の大きさを容易に想像することが出来る。

その後は浦上天主堂などを巡りながら、天主堂内に飾られている顔半分に無惨な火傷を負ったマリヤ像を見たり、或いは原爆で吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の残骸などを見たりして、いっそう戦争というものの愚かさと恐ろしさを思ったのだった。市内電車に乗ろうと松山町という駅に向かっていると、小さな公園があり、そこには墓標に似た塔が建っていた。近づいてみると「原爆殉職者名奉安」とあり、その下の方に「原子爆弾落下中心地」と書かれていた。傍の説明板を見ると、往時の状況が詳しく書かれていた。どうやらここは原爆資料館の一部らしい。本来なら資料館に入って見学をすればより詳しい状況を理解できるのだと思うけど、自分はかつて広島の原爆資料館を訪ねたことがあり、その時のショックは今でも拭い去ることができず、とてもあの惨禍の状況を再見することはできない。怖いものは見たくないなどというのではなく、悲しみと怒りを抑えきれなくなるからなのである。あの惨禍の状況を見て以来、原爆によらず、原子力などという得体の知れない怪物には重大な疑問を持っており、平和利用などという一見の美名に惑わされながら、無間地獄への道をそれと知らず進んでいる現在の原発政策の危険さには、先年の福島の事故以来断然の廃止を主張せずにはいられないのである。ここが長崎の原爆資料館の一部であることを知らないままに訪れたのだったが、資料館に入ろうという勇気は湧かなかった。見なくてもその悲惨さは十二分に伝わってくるのである。それよりもこの爆心地で、往時の投下者側の行動の報道記録の一部を見て、新たな怒りがたぎり湧いたのだった。

それは原爆を投下したアメリカの調査団についての記事だった。広島の原爆投下についてもそうであるけど、アメリカは原爆投下後のその効果について詳細な調査をしている。それは現在では調査団の報告資料として、誰でも読むことが出来るのだが、往時の爆心地に立ってそのような記事を目にすると、改めて自分は科学というもの、科学者という類の人でなしに対して怒りを覚えるのである。

科学というのはこの世のあらゆる仕組みを経験的、論理的に解明して行こうとする人間の、無限の取り組みだと理解しているけど、単なる興味や功利目的では決して踏み込んではならない領域が厳然しているのではないか。それはその科学研究のもたらす結果が、人間や地球を破滅させることにつながるのかどうかで決まるのだと思う。原爆や原子力などというのも、もともと目的の如何によらず踏み入れてはならない筈の世界だったのではないか。原子力の平和利用は、エネルギーコストの効率上からは有効な方法だと考える向きもあるけど、最終処理を含めて未だ人知ではコントロール不可能なのであり、それを知りながら負の部分を無視して使い続けるというのは、刹那主義的ご都合主義以外の何ものでもなく、一旦ことあればたちまち人類は滅亡の危機に遭遇するのである。

科学者というのは、勿論人間の心を持っている人の方が多いのだと思う。けれどそうでない者がいることもはっきりしている。原爆の製造者は科学の心に冒されて人間の心を失った人でなし(=似間)だと思う。国家という組織がそれを作らせたのだろうけど、人でなしと非難されても弁明は出来ないと思う。現在でも兵器など人類を殺傷する目的で研究に取り組んでいる奴輩は、人間ではない。人倫の道を無視している科学は滅亡の科学であるといって過言でない。これは爆弾には限らない。

この地で、その惨状を目にしながら、彼ら調査団の連中はクールな科学的効果の状況についての報告書をしっかりと書いている。それが使命なのだから仕方がないといえばそうなのだと思うけど、本当のところ彼らは、己らの為した罪に対して涙の一滴でも流したのだろうか。一発の新しい爆弾の科学的な成果と効果に狂喜しただけだったのだろうか。不信感は益々膨らんだのだった。

500mの上空を見上げてみたけど、そこには何も見えなかった。あそこで地獄の閃光が煌めいたのかと思いながらだったけど、春の空は、平和も戦争も、ただ霞めてしまうだけで、それは朧の未来につながっているだけのように思った。今を生きるというのは、ああ、このようなことなのかも知れないなと思った。  合掌 (1012年 九州の旅から)

   

爆心地に建てられた奉安の塔。この中に原爆で亡くなられた方々の名が刻まれ、眠っている。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする