山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「拉致と決断」を読み終えて思うこと

2012-12-01 00:57:47 | 宵宵妄話

 

 北朝鮮による拉致事件に関して、その帰還者の一人である蓮池薫氏が書かれた「拉致と決断」という本を買いました。拉致問題の現実というか、実際についてもう少し詳しく知りたいという気持ちは以前から膨らみ続けていたのですが、新聞の記事やTVのニュースなどを見聞する以上の情報はなかなか得られず、実際におぞましいともいえる体験をされた方の話こそ聴きたいものだと思っていたところ、この本が出版されたと知り早速手に入れたというわけです。ところが、最初にまえがき(=はじめに)という項目を読んで、これは簡単に読める本ではないと気づき、10日ほど読むのを控えて、改めて拉致問題とは一体何なのかということについての想いを巡らしたのでした。

 そもそも、国家が他国の人間を有無を言わさず攫(さら)ってゆくという行為は、一体何のために行われているのか不可解です。その国に好意を持つ者を自国に引き入れるというのなら、ある程度は理解できるとしても、何の関心も係わりもない一般人を、性別を問わず老人や子供まで攫うというのは、幾ら反体制の国家であるとはいえ、人間性にもとる常軌を逸した行為であり、許されるべきことではありません。北朝鮮(=朝鮮民主主義共和国)という国が、民主主義を唱えながら、他国の人民を攫って来るという行為をどう正当化しているのか、自国民がそのような事実を知ったとしたなら、その理不尽さは理解不能のように思えます。しかし、このような実態を一般国民に知らしめるはずもなく、この国の特殊関係者の世界の中で、未だこの非道は続いているわけです。

 工作ということばは、子供の頃の学校では、図画と並んで授業科目の一つとして取り入れられ、ものづくりの初歩を学んだ教科でしたが、その後別の意味があることを知り驚いた記憶があります。それは戦争時における諜報活動を行うことをも意味すると知ったからです。工作員というのがその言葉です。工作員というのは、敵国におけるスパイ活動のような役割遂行を担う者を指している言葉ですが、敵国の一般国民を攫うというような行為まで含まれているとは想像できませんでした。今の日本国においては、最早死語に近くなっていると思っていたのですが、世界の現実としては北朝鮮によらず何れの国においても、諜報活動は厳として生き続けているようです。

 この本を読んで感じたことは大別すると二つになります。その一つは拉致という人道上許されざる行為に対する怒りであり、北朝鮮という国の為政者(もしくは為政幹部)の身勝手で非道な振る舞いに対する憤懣やるかたない怒りです。そしてもう一つは北朝鮮という国に住む人々の現実を知ることによって、逆に今の日本に住む我々の生き様の危うさを感じたということです。

 先ず拉致ということについては、最早その非を難ずることの繰り返しには疲れを覚えるほどです。拉致被害者家族の皆様を中心に、解決を目指しての様々な活動が続けられて来ていますが、何といっても相手が不誠実というか、そのようなレベルを通り越しており、既にこの問題は解決済みなどとうそぶいているのですから、個人や小さな集団の力ではどうにもなりません。この問題の解決は、全て国のパワーの発揮に掛かっているとしか考えられません。国民を守るというのが国家としての最大の義務であり、且つ最高の責任だと考えます。拉致問題の解決が進まないのは、国家の為政に係わる者の怠慢であることは明白です。ここ数年何の進展もさせていない国家関係当局に怒りを感じます。上っ面のことしかやっていない連中に国を任せていていいのか、今回の選挙などでは厳しく見極める必要があると思います。

 もう一つのことですが、この本を読んでいて想ったのは、北朝鮮という国家に住む人たちの暮らしは、まるで太平洋戦争直前から終戦に至る前の日本国の状況と同じようなものではないかということでした。いや、それ以上に国家統制が厳しい非常事態の緊張が続いているという様にも思われます。あらゆる物資が国家統制のもとに動かされており、しかもそれが行き渡ってはおらず、計画経済が破綻を来たしているという状況です。

 戦後の物資不足の中で、国の配給に頼っては生きては行けないという時代を多少なりとも潜って来た自分には、今の北朝鮮に住む人たちの苦労が少しは解る気がします。日本国においても戦後しばらくは一日を生き延びるのに大変な時期が続いたのでした。小学生の頃の自分たちにとって最も重要だったのは、飢えを満たすことだったように記憶しています。この克服のために親たちがどれほど苦労したのか、それは往時の子供であれば誰でもよくよく承知していることでした。自分の場合は、主食はサツマイモやジャガイモなどのイモ類だったと思っています。やがてそれが麦飯となり、米の白米のご飯が食べられるようになったのは、中学を卒業するころではなかったかと記憶しています。この本を読むと、北朝鮮の現在は、自分の小学生の頃に近い食糧事情を思い浮かべます。いや、それ以上に厳しい状況なのかもしれません。

 本の中には暮らしの実態の断片について、幾つかの事例などが紹介されていましたが、それらはある程度は予想されていることであり、さほど驚くことでもないのですが、一番気になったのは、今の日本の自由と豊かさのあり方についての指摘です。貧しい北朝鮮から祖国の新潟に帰還されて、自由と豊かさに恵まれた暮らしを取り戻されて10年、その落差に対する冷静なコメントにハッとさせられたのでした。世界の中では飢えのために毎日何万人もの人が命を失う危険にさらされているのに、日本という国では毎日相当の食物が捨てられ、毎年農地の放棄が拡大しているという現実。このことに対する疑問は、大変重い警告ではないかと思ったのでした。

 今の日本国は、明らかに変です。自由と豊かさの裏で、何かが狂い始めています。戦前・戦中の隣組制度のようなものが北朝鮮にもあって、組織に縛られた不自由さも相当なもののようですが、日本国の自由は、人倫の規律までも破壊して腐り始めているかの危険を孕んでいるようです。昨年の大地震の被災以降、絆ということばが流行りましたが、その重みは次第にかすれ出している感じがします。身勝手という行為の方が遥かに不気味な増殖を続けている感じがしてなりません。

 だからと言って、北朝鮮のような暮らしの感覚を学ぶべきだとは思いませんが、自由の名のもとに身勝手が膨らんでゆくと、遠からず人倫の破滅がやって来て、豊かさとは無縁の世界が到来するに違いありません。蓮池さんの本を読んで、他にも考えさせられることはたくさんあるのですが、今一番思うのは、北朝鮮のことではなく、日本国の現在であり、将来についての心配なのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする