旅から戻って、ドタバタして、その後は無気力な時間が過ぎて、ようやく今、少し気力が回復してきました。ブログの方も書く気にはなれず、ペースはブログを開始してから以降最も低いものとなっています。もともと毎日作文するという方がおかしいといえばおかしいので、今のペースぐらいの方がまともなのだとは思っています。
さて、昨日は台風15号に振り回された一日でした。早朝から倅を駅まで送り、日中は急遽植え木の剪定を行い、夕方まではじっとしていて、夜になって交通機関にもみくちゃにされた倅を再び駅に迎えに行き、サッカーのオリンピック予選の第一戦を見終えてやれやれという一日の終わりでした。
このところ相次いで台風が日本列島を見舞っています。この見舞いは歓迎すべきものではありませんが、この後も何回か勝手にやって来て、日本に住む人たちを痛めつけるのかもしれません。予報専門家の話では、南方にはまだまだ台風の卵なるものが幾つも潜伏しているということですから、これは避けられないことなのでしょう。9月一杯は台風が来ても仕方ないと諦めるのが日本人の感覚でしたが、この頃は10月はもとより、それ以降の冬に近いような季節でも時として台風の話を聞くことがありますので要注意です。
今年は東日本大震災があり、加えて何度も大雨を降らせる台風の襲来があって、まさに天災地変の災禍の年だと言えるようです。その原因が何なのか、良く判りませんが、地震についていえば、地下の何かが異常を来たしているのでしょうし、又台風や大雨は地球を取り巻く大気の様子が狂い出している証なのかもしれません。環境汚染や地球温暖化が叫ばれ出して久しいのですが、人間たちはその暮らしぶりを一向に改めようとはせず、事態はますます深刻の度を深めているのかもしれません。今の時代、天災地変はそれに対する警鐘なのだと理解するのが一番妥当な気がします。人間は自分たちの欲望を満たすために、あまりにも自然に対して冒涜をし続け過ぎたのかもしれません。
その最たるものが原発事故なのだと言えるような気がします。人災の極みのようにも思えます。この事故はまだ収束しておらず、曖昧な報道の意味するものは、人間にはまだ原子力というパワーを取り出す理屈はあっても、そのもたらす恐るべき結果の全てをコントロールできるような理論と手段は持ち合わせていないということなのではないかと思っています。原発というのは見切り発車の事業であり、そこで使用した核燃料なるものは、人類がコントロールすることが不可能なものであり、使った後もその処理方法すらも定まらない危険な代物なのです。地下深く穴を掘って埋めれば済むというような対応は、問題の本質的な解決策ではなく、苦し紛れの一時しのぎに過ぎず、その埋められた核物質は依然として分裂をし続け、放射能を発生し続けるのですから、もしそれが地上に現れるようなことが起これば、人類はとてつもない災禍に見舞われるのは必定であり、地球汚染の最たるものと言えると思います。
この世で怖いものに、地震・雷・火事・親父がありますが、今の世に起こっている怖いものといえば、この四つで言うなら一番怖いのは親父の所業、すなわち人災のもたらす災厄なのではないかと思うのです。現代の人間社会の中では、もはや家庭で親父などと言われる者の居場所は痴れたものであり、怖いなどというのは例外に過ぎません。しかし、この世界中の親父どもが為している職業としての地球に対する所業は、トータル的にいえば、天に唾する冒涜の類なのかも知れません。目の前の欲望を満足させるために、人間は見境のない努力を重ねて今日の利便性を獲得しているように思えます。原子力のみならず各種の情報ツールの進展もある部分では人災を内包しており、しかもそれは加速化されている傾向がある様です。言いかえれば、真実としての大自然からの離脱は、益々加速化されているということです。
人間のためだけの利便性を求めることが、人間の本当の幸せにつながるのか、疑問です。自分たちが住んでいる地球という存在を忘れて、自然界でも何でも自在に己の欲望の対象にするという考えは、あまりにも身勝手な振る舞いであり、調和を欠いた行為であると言わざるをえません。
しかし、個々の立場においては、人間は己の小さな存在を知っている者が多く、決して大自然を冒涜するなどという大胆なことを考えてなどいないのですが、トータル的には地球に住む動物の一種に過ぎないという存在を忘れ果てている感じがします。北海道の大自然の中にグータラに身を置きながら、我が親父としての半生は何だったのか、徒(いたずら)に人類の欲望実現に加担しただけではなかったのかと、ふと思ったりしたのでした。
今、何が大切なのか、本当に必要なものは何なのか、今年の天災地変と重大な人災の出来(しゅったい)は、私たちにたくさんの問いかけをしているように思います。