山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

西海道&西国の旅の記録から(その29)

2024-07-28 09:16:59 | くるま旅くらしの話

<宮津・舞鶴・若狭の道へ>

山陰エリアから裏京都に近づいて、若狭エリアを通って、琵琶湖西岸を辿って、奈良の方に向かうのが今回の旅の予定コースでした。旅も終盤が近づき、九州は次第に遠くなり出しました。昨日は城崎を出てから丹後半島を横切って、天橋立を通過して、宮津の道の駅まで来て泊りました。宮津は海の京都を自称しており、何だか京都であることを強調している感じがします。確かに京都府なのですが、やはり都からは遠く離れており、京都のイメージとは違うなと思いながらの一夜でした。

朝になって、思いついて朝食を加悦(かや)の道の駅に行って摂ることにして出発しました。加悦はシルクの里と道の駅にサブタイトルがついていますが、ここでは野菜類などの他に絹織物製品などを手に入れることが出来ます。でも行ってみたら、未だ営業時間前で誰もおらず売店のシャッターは閉まっており、只駐車場の隅でお湯を沸かして朝食を済ますだけでした。その帰り近くに少し安い価格のスタンドはないかと探したのですが、この辺りは皆ガソリン価格が高値でどこも同じでした。

旅のコースを決める時は、基本的に往路と復路が重ならないようにしているのですが、今回はやむを得ず舞鶴からの若狭路は往路と同じ道を行くことになりました。宮津から由良の海岸沿いの道を行き、由良川に架かる橋を渡って舞鶴に向かいました。ここからは往路と同じ道となります。舞鶴の市内を通る国道27号は、バイパスがないので、少し道路状況が悪くなります。とれとれセンターなど魚好きの私には魅力的な場所もあるのですが、欲望を押さえて先に進みました。左手に海上自衛隊の護衛艦なのか軍艦の様なものが停泊しているのを横目で見ながら町を通り抜けると、そこから先は福井県の若狭路となります。そろそろ溜まっている洗濯ものを何とかしなければならないと考えていたところ、高浜町の道の駅の手前で新しいコインランドリーがあるのを発見。家内が確認して大丈夫ということで、ここで洗濯をすることになりました。家内の話では、コインランドリーもピンからキリまであって、古い機械の店は値段が高くて効率が悪いことが多いので敬遠することにしているとのことです。ここは理想的な店だったようです。それから2時間ほどは家内の時間。私の方は待つだけです。PCでも持参していれば、やることがあるのでしょうが、今回は無しです。

2時間ほどかかってクリーニングは終了。そのあとは近くにある道の駅のレストランで軽く昼食を済まし、大飯町を通り小浜に向かいます。高浜、大飯には原発があり、この辺りは原発通りと呼んでもいいような感じがします。何も無くても何だか警戒心が働くのは、原発に対する不信感があるからなのでしょう。人間が創り出した恐るべき放射能という副産物の脅威は、それに対する対処法が何も無くて、只千年を超えるという時間があるだけというのですから、どんなに万全の対策をしたとしても大自然のパワーの前には人間のやることなんて無力に過ぎないのです。それはすでに福島の原発事故事件で明らかになっているのです。エネルギーをどう確保するかは重大な問題であり、その手段として原発の必要性は理解できるとしても、それに依存するというやり方には到底賛同はできません。何事も命あってのものだねだからです。命がなくなったら、エネルギーなど不要なのですから。

ま、横道に入るのは止めて、昼食の後は大飯町を通過して小浜の街に。ここでもう一度フィッシャーマンワーフに寄って、鯖の串焼きを求めたいという誘惑心が騒いだのですが、それをぐっと押さえこんで、先に行くことにしました。往復で鯖の串焼きを食べたりしたら、必ず血糖値に異常を来し次の健診時に医者から注意されるのは必定だからです。30年も糖尿君と付き合っていると、食に関しては如何に我慢が大切なのかを身に沁みて知っているからです。今度いつ小浜に来られるのか分かりませんが、それまではとにかく我慢なんだと自分に言い聞かせました。

小浜を通過して少し行くと、旧上中町に瓜割の滝があります。往路でもここの名水を汲みましたが、今日も2Lのペットボトル6本を満たさせて頂きました。今回の旅では、飲料水はここの湧き水の他、道の駅吉野ヶ里と高森町の白川水源で汲ませて頂きましたが、お陰さまで市販の水を買わずに済ませることができました。お茶を飲むためだけしか使いませんので、これで十分なのです。瓜割の水を汲んだ後は、若狭路を少し走って国道27号から国道303号に入ると、直ぐに道の駅:若狭熊川宿があります。この辺りを通る頃から雨が降り出し、小雨に煙る中の到着となりました。この宿場町も重伝建指定となっており、町並もかなり大きくて、晴れていれば散策して楽しめるのですが、今日は諦めてここに来ると必ず手に入れる鯖寿司を買うことにしました。ところがあまりにも高価となっているので、生の鯖寿司には手が出せず、焼き鯖寿司で我慢することにしました。昔の鯖街道であれば、このようなことはなかったのだろうと思いますが、今では若狭湾では鯖は獲れなくなって、皆ノルウェーからの輸入鯖に頼っているのです。哀しいことですが、鯖を食べられるだけ幸せというものです。

熊川宿を出て少し走ると、間もなく琵琶湖に出ます。雨降りの空なので、少し暗くなり出しているようです。今日はびわ湖西岸の道を行って、どこかの道の駅に泊るつもりでいます。その国道161号に入って少し走ると、道の駅:藤樹の里あどかわがあり、ここは必ず寄る道の駅なのです。ここは高島市にあって、江戸時代の陽明学の大家だった中江藤樹の出身地だというのでそのような駅名がついているのですが、琵琶湖に関わる様々な産物が売られているので獲物を探すのです。それは主に家内の世界です。

安曇川を出てしばらく走ると道の駅:妹子の郷があります。大分暗くなってきたので、ここに泊ってもいいかと考えたのですが、も少し足を延ばしてびわ湖大橋の袂にある道の駅まで行くことにしました。びわ湖大橋米プラザに着いた時はとっぷり日が暮れていて、琵琶湖は霧雨に霞んでいました。

 

 *原発の並ぶ若狭の道を行く不慮の事態の不安拭えず

 

 *幾度(いくたび)も訪ね来たりし若狭路の今日も瓜割の水を戴く

 

 *旅人の絶えて閑(ひま)なる時ならん熊川宿は霧雨の中

 

 *森を抜け湖畔に出れば近江なる湖(うみ)は隠れて霧雨の中

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西海道&西国の旅の記録から(その28)

2024-07-27 04:26:40 | くるま旅くらしの話

<出石城下町から城崎温泉へ>

兵庫県但馬の国の豊岡市には、私たちがこのエリアを通る時には必ず通る楽しみの場所が二カ所あります。それは一つは出石町であり、もう一つは城崎温泉です。この二つの町は、どうして豊岡市となったのか、これらの地を訪ねた最初の頃は良く判りませんでした。市町村の合併でそうなったのでしょうが、しばらくはピンと来ませんでした。豊岡といえばコウノトリが有名ですが、城崎や出石とはあまり係わりがあるとは思えず、どうしても豊岡と一緒というイメージが湧かないのです。ま、これはあくまでも個人的感慨です。

出石と書いて(いずし)と読む此処は、私には昔から親近感がある場所なのです。というのも時代小説を愛読して来ているのですが、この城下町を舞台に描かれている小説を幾つか読んでいたので、自然とこの町を知るようになり、実際に旅で行って見ると、なるほど時代小説の舞台にはぴったりだと納得できる、小じんまりとした城下町なのでした。出石と言えば、今は城(櫓)と振鼔楼(=時計台)と出石焼と皿そばということになります。何度か行っているうちに最近はやっぱり皿そばが一番となり出しています。今回の旅では、一つは出石焼の皿などを求め、皿そばを食べるのがメインの目的でしたが、家内は出石焼の湯のみなどを手に入れた様ですが、私は皿そばだけをしっかり味わって来ました。皿そばというのは、東北のわんこそばと同じようなもので、蕎麦を皿にのせて出てきたのを、何種類かのタレで食べるのですが、わんこそばのお椀よりは一皿分の盛りが多くて5皿が一人前となっているようです。今回は更に2皿を追加したのですが、腹いっぱいになってしまって、やや苦しい時間が長く続きました。次回は標準で止めるようにしたいと反省しました。

出石の町を出た後は、丸山川に沿った道を走り城崎町へ。勿論此処へ行く目的は温泉に入るためです。ここの温泉は文豪と言われる作家たちに愛されており、谷崎潤一郎の「城崎にて」は有名です。実際に行って見ると、熱海や箱根などとは違った落ち着いた雰囲気の温泉町の情緒を感ずる場所です。私たちは、出石の後はここを訪ねて温泉を楽しむことにしています。温泉の町は、どこも同じようで道が狭く建物が櫛比(しつぴ)していて、駐車場を見つけるのに苦労するのですが、私の旅車は少し車のサイズが大きいので特に苦労します。今回は幸いにも直ぐに空いていた駐車場を見つけることが出来てラッキーでした。今回も「一の湯」という古い公衆浴場に浸ってお湯を楽しみました。風呂から上がると、川端の柳の緑が風に揺られて清々しく、印象的でした。

 

 *忘却の時を刻むか振鼔楼(しんころう)出石の町は昔を残して

 

 *皿そばを食らいて嬉しこの町の味をしみじみ噛みしめており

 

 *名物の皿そば美味し出石来て音立てながら昔を啜る

 

*川端の柳の枝のうす緑出で湯の後の風の涼しさ

 

 *城崎の出で湯にしばし浸り来て旅の思いを一つ果たしぬ

 

 *川端の柳の緑城崎は昔も今も変わらぬ風情

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西海道&西国の旅の記録から(その27)

2024-07-26 09:15:24 | くるま旅くらしの話

<無料の落とし穴>

世に「タダほど高いものはない」という箴言(しんげん)がありますが、それをしみじみと味わい反省したという話です。日本国には未完成の高速道が幾つもあって、車で旅をしていると、そのような場所を通ることが多いのです。それらの多くは未完成のゆえに、既に出来上がった箇所は無料で通行できるようになっています。

今回の旅では、九州の一部と山陰エリアの一部にそのような箇所がありました。それらの場所の多くは事前に高速道になっているのに気づかずに走っていると、いつの間にかそれが高速道であることが多いのですが、入口の方は良いとして出口の方では一般道へ入るので、終点の表示が明確にしてあり、そこから一般道に入れるようになっているので、安心なのです。私は、どの未完の高速道も必ず終点の表示があるものと思っていました。ところが、そうではない箇所もあるのだということを思い知らされたという話です。

中国地方の日本海側には山陰道というのが造られているのですが、どういうわけなのか、なかなか一本化されず分断的に造られていて、無料で走れる箇所が多いのです。その中で米子を出てから国道9号が直ぐに高速道路となり、しばらく走っていたら、間もなく終わって、終点があって再び一般道の9号となったので、再びしばらく走っていたら、また高速道の区間となったので、そのまま走り続けて、鳥取市内に入りました。走っておれば再び終点の表示があって9号に入れるのだろうと、そのまま走り続けたのですが、かなり走っても一向に終点表示がありません。あまりにも長いので疑問を感じ出しました。途中のICが岡山県に入っているのに気がつき、こりゃもしかしたらもう出来上がっているのに無料のままになっている道ではないかと思い始めました。とうとう智頭ICまで来てしまい、完全に行き過ぎに気づいて、引き返して戻ることにしました。降りた一般道は9号ではなく何と国道53号なのでした。戻って9号にある道の駅:岩美まで行くにはかなり時間を要しました。今日は道の駅:岩美に泊る予定なのです。走っている時はナビを見ているだけでどこまで行くのかが判らないのですが、あとで地図を見たら、何と走っていたのは鳥取道というので、これはもう完成していて、そのまま走り続ければ岡山県内で中国道に繋がっているのでした。なのに、何で無料が終りという表示がないのか、疑問を感じました。ま、無料で智頭町まで走れたのだから、文句はない筈だと言えるのかもしれませんが、これはありがたくない不親切だなと思いました。これからはしっかり事前に地図を見ておこうと思いました。それにしても道路公団には無料と有料の切り替えが明確に判るような表示をして貰いたいものです。

 

 *無料ほど怪しき高速の道は無し気づけば知らぬ世界に至る

 

 *誤りて道行く人となりにけり高速道路無料の果ては

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西海道&西国の旅の記録から(その26)

2024-07-24 23:45:11 | くるま旅くらしの話

<安来は泥鰌掬いだけにあらず美の極致のある所>

安来と言えば泥鰌すくいということになるのですが、無芸大食の私には縁のない宴会での芸事でした。もし安来に生まれ育っていたら、身についていた芸だったのかもしれません。尤も今頃は泥鰌掬いをしても笊に泥鰌が入って来るような場所は、全国どこを探しても皆無でありましょう。ありのままの自然とは縁のない世の中になってしまいました。人類がこの地球を我がものにし、食いつぶし、破壊していることは明らかです。しかし最早誰にもその破壊行動を止めることができません。なるようになるだけと言った無力感にとらわれるだけです。

話が少し変な方に行ってしまいましたが、その泥鰌掬いで名のある安来を通る時には、必ず寄って見なければならない場所があります。そこは安来の町外れの山間部にあって、ごく平凡な農村地帯なのですが、人類の破壊行動の真反対にある、人類が生みだし残した美と言われるものの一つが結集している場所なのです。その名は足立美術館・庭園です。

足立全康(ぜんこう)という男の執念がつくり上げた現代稀に見る美の殿堂なのです。美術館と言えば、その多くは都市部にあって、交通至便な所が多いのですが、この美術館は、至って交通が不便な場所にあるのです。今は車社会の世の中なので、車を扱える人ならば不便ということはないのですが、仮にこの美術館や庭園が50年前に出来たとしても不便を乗り越えて多くの人たちが此処へやって来たに違いありません。それほどに、ここには人々が希求する美の結晶が用意されているのです。

足立美術館には、我が故郷の水戸出身の偉大な画家横山大観の絵が数多く常設展示されています。それだけでなく我が国の著名な画家、これからを背負う画家の数々の傑作が展示されています。今は魯山人の部屋もつくられており彼の多才な作品が展示されています。それに何と言っても息を飲むのは、アメリカのがーディニング専門誌で20年以上日本一と評価されている庭園の景観です。

今回は3度目の訪問でしたが、この美術館と庭園をつくった足立全康という人物がどのような人だったかをもっと知りたくて、その伝記を購入して読みました。彼が自分の来し方を口述したものを冊子にまとめた本なので、本人の感慨や思いがそのまま伝わって来る内容でした。これを読んで、この方は根っからの商人(あきんど)なのだと思いました。私が思う商人の本質というのは、人々が求めるものを探し求めそれを用意して買って貰って利を稼ぐことなのだと思っているのですが、この方はそのことを生涯をかけて徹底して実践した人なのだと思いました。そして最後に到達したのが己の美の追求の結果を広く世間に公開して知らしめるということでした。そこには商人(あきんど)としての思いよりも、より洗練された彼の美への追及心の結晶の様なものがあったのではないかと思いました。とにかくとんでもないエネルギーに満ち溢れた偉人だったのです。この男(ひと)のエネルギーのもたらしたものは、これから後も日本から世界に向かって解放されて、ますます成長して行くのではないかと思いました。

 

*一人(いちにん)の男の夢は限りなし美の殿堂をふるさとに建つ

 

 *美の極致(きょくち)求めて創(つく)り遺(のこ)したる足立の庭は今日本一

 

 *万人の美への憧れ満たしたる安来の男の偉業を讃(さん)す

 

 *故郷(ふるさと)に錦を飾れる男ありあっぱれ偉業は永久(とわ)に輝く

 

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西海道&西国の旅の記録から(その25)

2024-07-24 08:25:43 | くるま旅くらしの話

<べにくらげの話>

「べにくらげ」という不老長寿の生き物の話を聞いたのは、今から何年前の頃だったか。その頃は世の中に自作のホームページ作りが流行り出した頃ではなかったかと思います。「べにくらげ」というのは、地中海の深い所に棲んでいて、滅多にその姿を見ることは出来ない存在なのだそうな。そのようなことがそのホームページに書かれていました。

 そのようなべにくらげが、何と今は陸に上がって、鳥取県の境港に続く米子の弓が浜近くの陸地に住んでいるのです。ひょんなことでそのホームページの作者の方と旅の中で知り合って以来、私たちはそのべにくらげ夫妻のことを親しみをこめてべにさん・べにママさんと呼んでいます。もうお付き合いは、15年を超えているでしょうか。今回の旅では、前回はコロナの少し前に逢ったくらいですから、もう6年以上経った再会でした。

べにさんは、万能の力を持っています。自力で何でもつくってしまうのです。特にアウトドアの暮らしが好きで、住む家もアウトドアスタイルで、自宅の庭の隅に自らつくったピザ小屋で暮らしているのです。小屋の中には勿論ピザ窯をはじめ燻製窯、それに自作の薪ストーブが据えられていて、見上げると照明はガラスの円筒をカットして中に電球を設えた手づくりの物、その他幾つかの木工工作の作品が梁の上に置かれています。ドアも紐で開閉を操るようにつくられています。皆手づくりなのです。べにさんは本当にこの小屋を大事にされていて、春夏秋冬この小屋の中での暮らしを大事にされています。この魔法の小屋は、彼が孤独を愛するためのものではなく、その全く反対で、多くの人たちに来て貰い、その人と人との親交を深めるためのものでもあるのです。身近な人は勿論のこと、私共の様な旅で知り合った人たちもこの小屋を訪ねたくなってしまうのです。仕事の現役をリタイアしてからの暮らしというものは人によって様々ですが、理想を言うならば、リタイア後の人生を現役時代よりも尚広く深く豊かに生きてゆくことではないかと思うのですが、べにくらげご夫妻はまさにその理想を実現・実践されているのです。私たちはその生き方にもろ手を挙げて賛同し共感し、このエリアを通る時は素通りは出来ないのです。

 今回は本当に久しぶりの再会でした。懐かしい(もう、そのような気持ちなのです)ピザ小屋を訪れて、べにさんご夫妻の心尽くしのご馳走に舌鼓を打ちながら、今までのご無沙汰を埋めるべく、夜遅くまで歓談の時を過ごしたのでした。

 

 旅(たび)友(とも)の心温(ぬく)まるもてなしに酔いて嬉しき人生談義

 

 *二組の老いた夫婦が願うのは健康第一再々会

 

 *老いたれど心は老いず豊かなり我ら旅友永遠(とわ)に旅友

 

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西海道&西国の旅の記録から(その24)

2024-07-23 19:42:06 | くるま旅くらしの話

<出雲大社への神話街道を行く>

しまなみ海道へ行くのを断念した翌日も天気は不機嫌でした。下松SAを出て山陽道から広島道を経て中国道の三次ICを出て、国道54号で出雲の方に向かうことにしました。松江道もありますが、高速道はつまらないので、一般道を行くことにしたのです。この国道54号は以前も通ったことがあり、途中に幾つかの道の駅があるので、それらを覗きながら行くのも楽しみの一つなのです。この道は別名神話街道とも言われているようですが、どのような神話があるのかは聞いたことがないので、集めたら面白いのでしょうが、今回はそのような余裕がありませんので只通るだけです。道の駅は、夢ランド布野 → 未来高原 → 頓原 → 掛合の里 → さくらの里きすき と続いて宍道湖に出てそこから国道9号に入って、湯の川の道の駅となります。今回はこの湯の川の道の駅に泊って、翌日に出雲大社に参拝することにしました。その前に湯の川の温泉に入ることにしました。湯の川温泉は美人の湯として名高いのだそうですが、この種のお湯のことは私にはよく分かりません。ま、老妻が美人になることに何の不満もありませんが‥‥。

翌日の出雲大社へは雨の中を傘をさしての参拝となりました。

 

  山陰(やまかげ)の小雨に煙(けぶ)る出雲路は細く続いて人影も無し

 

  *老妻も美人となるか湯の川の出雲の出で湯長く浸(ひた)りて

 

  *人びとの願いは神と共にあり出雲大社は縁(えにし)を結ぶ

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西海道&西国の旅の記録から(その23)国の旅の記録から(その23)宇佐神宮を訪ねる>

2024-07-23 04:03:19 | くるま旅くらしの話

<国東の寺と宇佐神宮を訪ねる>

昨日の宿は急な変更だったのですが、温泉は不意になったものの泊りの方は、トラックの騒音も無く、静かな一夜を過ごすことが出来ました。この道の駅には「童話の里」とあり、駅の構内に桃太郎と犬,猿、雉をイメージした子供向けの大きな像があるので、どういうことなのかと不思議に思い、説明書きを読んでみたら、この町出身の日本のアンデルセンと言われた口演童話家の久留島武彦という方が、子どもの豊かな心を育むことに生涯をかけて世界中の子どもたちを訪ねて童話の口演をされた活躍を記念して子どもたちの心のふるさととなるような「童話の里の町づくり」をめざしてつくられたとありました。そのような立派な方が居られたのだということを初めて知りました。

さて、今日は九州を訪ねる最後の日となる予定で、先ずは御佛(みほとけ)の里国東半島の二つのお寺を訪ねて、その後に宇佐神宮に参拝してから東九州自動車道に入り、山陽道を経て尾道からしまなみ海道の大三島を目指すことにしています。尤も長距離となるので、どこか途中のSAで泊ることを考えています。

ということで、先ず国東までは大分道を利用することにしました。目の前に玖珠ICがあり、直ぐに高速道に入り、由布岳や鶴見岳を見ながら大分農業文化公園という、ちょっと変わった名のICで降りて、山里の道を辿って、先ずは真木大堂を訪ねました。国東の寺巡りにはかなりの時間を要するので、今回はこの真木大堂とその近くにある富貴寺の二カ所だけに参詣することにしました。お寺の方は家内の関心事が大きいので任せることにして、自分はちょっと覗いてあとは待機するだけなのです。

真木大堂は平安時代には大伽藍を構えた大きなお寺だったということですが、現在はその名残がほんの少しあるだけです。次は富貴寺ですが、ここは家内の関心大でかなり時間をかけて参詣していました。拝観料が要るので、自分は門前の階段を上って、石の仁王さまを拝むくらいで、あとはその辺をぶらぶらしていました。真木大堂の方は今はほんの一部の建物しか残っていないのに、富貴寺は立派に残っているのはなぜなのか少し気になりました。富貴寺は宇佐神宮の別当でもあったということですので、違う運命を辿ったのかな、などと考えました。詳しいことは分かりません。

あとで家内に聞いた話では、真木大堂に残る仏像を今回初めて見たということですが、富貴寺の仏像と合わせ見て、どれも素晴らしい魅力的なものなのだということでした。家内は仏教史だとか、仏像に関する勉強をしているので、専門的知識を持っており、門外漢の自分とは違って、この二つのお寺に対する評価は相当に高いものでした。仏像を拝することもせず、暇を持て余して、外でぶらぶら歩いている者は、お寺の姿だけを見てつべこべ言うのは僭越過ぎるのだなと反省した次第です。

家内が戻って来て、次は宇佐神宮参拝です。しばらく宇佐市の郊外を走って国道10号に出て少し行くと宇佐神宮です。今日も天気が良くて日差しがきついので、神宮の広い境内を歩くのは厳しいなと思いながらの参拝でした。宇佐神宮と言えば、ここは全国の八幡神社の総本山ということですから、格式も高く、参拝する人も多いことになります。今はどのような時期なのか広い駐車場は3割ほどしか車はありませんでした。とにかく暑いので、木立の蔭を探しながら歩きました。どこの神社も同じ様なのですが、大木の森に囲まれているので、その中に入ると自然と清浄な気持ちになり、暑さなどは忘れてしまうものです。しばらくその澄んだ空気を呼吸しながら参拝を済ませました。

これで九州の旅は終わりとなるのです。どこから高速道に入るか考えながら走っているのですが、その前にガソリンを満タンにしておく必要があります。どこか安いところはないかと走っていると、中津の手前あたりに少し安いエリアがあったので助かりました。そして少し行くと、道の駅:なかつがあったので、ここで昼食休憩にすることにしました。中津と言えば唐揚げが有名です。なので、唐揚げ定食をオーダーして食しました。まあまあといった感じでした。休憩の後出発して、椎田南ICから東九州道に入り、そのあとは九州道から中国道、山陽道と走って、山口県の下松SAで泊ることにしました。

九州道から中国道に入る頃から天気は急激に悪化して、雨も風も強くなり出しました。下松SAは往路の際も泊ったのですが、今度は上りなので場所は異なります。とにかく酷い風なので、明日のことが心配です。予報を見ると、この天気は収まらないようで、しまなみ海道の大三島の方も同様の天気らしいのです。どうするかしばらく迷いましたが、思い切って行くのを止めることにしました。大三島に行くのは、しまなみ海道にある大三島と隣の生口島に架かる多々羅大橋というのを歩いて渡るというのが目的だったのです。海面から100mの高さのこの橋を渡るのは、空中散歩の感があり、その途中には拍子木を打つとその反響の音である「鳴き龍」を聞くことが出来て、何度かそれを体験しているので、もう一度あの恐怖と快感が綯い交ぜとなる不思議な体験を味わいたかったのです。しかし、明日も今日と同じように風雨の厳しい天気では、明後日を待つというわけにもゆかないので、断念せざるを得なかったのです。

ではどうするか?これは大きな変更です。とにかく四国方面に行くことは諦めて、山陰の方に行くことにしました。明日は天気の良し悪しに係わらず広島から三次の方へ行って、三次からは一般道で出雲大社の方へ行くことにしました。大雨の中の決断でした。

 

 *忽然と現われ消える由布岳は旅の車のガラスを飾る

 *麦秋と田植の景色交々(こもごも)の御仏の里の春は過ぎゆく

 *平安の夢は何処に消えたやら真木大堂に仏像(ほとけ)を残して

 

 *富貴寺の石の仁王も又我も老を噛みしめ此処に立つなり

 

 *宇佐の神善男善女四泊の祈り叶えよその力もて

 

 *空中の散歩は不意となりにけり多々羅大橋鳴き龍遠く

 

 

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西海道&西国の旅の記録から(その21)

2024-07-22 15:42:23 | くるま旅くらしの話

<日向高千穂は神話の里>

 鵜戸神宮の後は、日南海岸を走って宮崎市内に入り、コインランドリーを探して溜まっていた洗濯問題を解決した後、そのあとはひたすら日向街道を北上して延岡から高千穂に向かいました。ナビに従って行ったら、いつの間にか高速道の様な道をガイドされて少し迷ったのですが、そのまま進んで行ったら、既知の一般の道路に出たので安心しました。九州では新しく中央道という高速道を建設中で、それは未だ高千穂までは通じていなかったのでした。でも、おかげさまで予定よりも少し早く着くことができました。

高千穂には何度も来ています。20年前の2004年に来た時は、夜神楽を知ろうと、黒口という集落で開催された夜神楽神事を、始めから終りまで見学しました。それは夕刻の16時過ぎから始まり、終わったのは翌日の朝なのでした。勿論神事の中心は舞いであり、それには33の演目があって、18時から翌朝の4時頃までぶっ通しで続けられるのです。舞い手も見る方も大変なエネルギーを要するものなのでした。12月に近い寒い時節だったので、私は3時頃でギブアップして車に戻ったのですが、舞踊に関心のある家内は最後まで見届けたのでした。この経験は、それまで殆ど関心のなかった私を神事や神楽などに近づかせてくれたのでした。

今回の高千穂は、夜神楽(毎年11月下旬の頃から各集落で始まる)を観に来たのではなく、あらためてこの神話の里を散策してみようと考えたのでした。高千穂にはどうしても行きたい場所が幾つかあります。先ずは神話にある天岩戸(あまのいわと)を連想する天岩戸神社、それと如何にも神話の雰囲気を醸している仰慕(ぎょうぼ)の窟(いわや)、高千穂峡、高千穂神社、それと国見が丘などです。これらを1日で見て回るのは無理なので、道の駅に2泊して見ることにしました。1泊目は着いた日なので、どこへも行かず、翌日は天岩戸神社を中心に見て回りました。天岩戸神社は西と東と二つあって、西の方には仰慕の窟という天照大神が籠ったという大きな岩窟があり、これらを回るのには結構時間がかかるのです。今回は身体のことも考えて、見た後は近くにあるその名も天岩戸の湯という温泉に入って休み、残りは明日にすることにしました。

で、翌日暑くならない内にと早朝に道の駅から歩いて高千穂神社と高千穂峡に向かうことにしました。車の外に出ると、丁度昨夜は満月に近かったのか、山の端に月が残っていて、僅かに白い雲が掛っていて幻想的な景観がありました。先ずは高千穂神社に参拝して、そのあと高千穂峡に行こうとしたのですが、神社から先はとんでもない坂道が続いていて、行きは下りだから良いとしても帰りの上りは戻るのが大変なことになり、疲れてその後の予定がこなせなくなるかもと心配になり、行くのを途中から思い止まり戻ることにしたのです。無理をすれば車の運転も出来なくなるかもしれないと思ったのです。又また老を実感した次第です。どうにか車に戻って、もう国見が丘に行くのも止めることにして、一休みした後、阿蘇の方に向かって出発したのでした。高千穂をじっくり味わうのには3~4日必要な体力になっているのだと、思い知らされたのでした。

 

 *鮮(せん)緑(りょく)の満ち溢れたる渓谷の天岩戸に神々を見る

 

 *渓谷を二つに分けて岩戸川天岩戸を開いて流る

 

 *天にある岩戸の出で湯に浸りつつ老の我が身を確かめており

 

 *青き山連なる日向高千穂の里の人らは何処(いずこ)に在(おわ)す

 

 *高千穂の峰に掛れる残月の薄れて里に朝は来たれり

 

 *日向高千穂神話の里は今日も湧き出る白雲の中

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西海道&西国の旅の記録から(その20)

2024-07-21 16:36:21 | くるま旅くらしの話

<二月遅れの鵜戸さん詣り>

聴いたこともないのに何故か唄の文句だけは覚えている、それが「シャンシャン馬道中唄」なのです。「鵜戸さん詣りは春三月よ 参るその日がご縁日 行こか参るか七坂越えて 鵜戸の神社は 結び神」 これは一番唄の歌詞ですが、これを全部覚えているわけではなく、知っているのは、出だしの「鵜戸さん詣りは春三月よ」だけなのです。その鵜戸神宮は、日向南部の鵜戸岬の傍にあって、とんでもない海の崖の窟(いわや)の中に社(やしろ)があります。こんなすごい場所にある神社を見たことがありません。それだけに心に残る場所となるのです。神宮と言いますから、神を祀る社の中でも格の高いものなのでありましょう。

 此処も12年前に訪ねた場所なのでした。その時は都井岬の馬たちを見た後でついでに寄った感じなのでしたが、何せとんでもない場所だったので、いつかチャンスがあればもう一度行ってみたいと考えたのでした。それが今回実現した次第です。今回は都井岬は雨の天気でしたので馬たちに逢いに行くのは止めました。鵜戸神宮で一つ追加する思い出があるのは、ここでは運玉投げというのがあって、それは焼きしめた小さな土の玉を眼下3mほど下の岩に穿たれた丸い小さな窪みに向かって投げるもので、男は左手で、女なら右手で投げるというのが決まりなのです。このようなことには家内は積極的で、自分もつられてチャレンジしてみたのですが、5個共全部失敗でした。ところが家内の方は見事に1個入れるのに成功したのでした。成功すれば運が向いて来るということなので、注目の的でした。家内は飛び上がって手を叩いて喜んでいました。その後家内にどのような運が向いてきたのかは判りません。

 今回の鵜戸神宮参拝は、12年前とは大違いで、駐車場から社までは少し歩いて行かなければならないのですが、その道は急坂やきつい石段などがあって、息は切れるわ、足は上がらないわで、嫌というほど老を思い知らされました。参拝の後、今回は自分の方が積極的に運玉投げに挑戦したのですが、とんでもない見当違いの方にばかりしか投げられなくて、惨敗でした。家内の方も前回と同じというわけには行きませんでした。とにかく、この時ほど老を感じたことはありませんでした。鵜戸神宮のプレゼントは、老を確(しか)とわきまえよ、という警告なのでした。

 

  *二月(ふたつき)も遅れて詣る鵜戸さんは白波砕け春は終わりぬ

 *荒波は巌(いわお)を穿(うが)ち砕け散る飛沫(しぶき)は白し鵜戸の岬は

 

  *息切れて老の厳しさ噛みしめるこれが最後か鵜戸さん詣り

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西海道&西国の旅の記録から(その19)

2024-07-21 08:48:27 | くるま旅くらしの話

<霧島神宮付近を巡る>

旅は、熊本県エリアを離れて、鹿児島県エリアに入りました。一番最初は、鹿児島県北部に聳える高千穂の峰に本宮を置く霧島神宮の参拝でした。ここは12年前にも参拝しています。あの時は丁度秋の収穫の季節で、神宮では、ほぜ祭りというのが行われていて、神楽をはじめ郷土民芸など様々な豊穣を祝う芸能等が奉納されていました。大勢の人出に驚いたのを思い出します。

今回はそのようなイベントは催されてはいませんでしたが、それでもかなりの参拝客があったようです。この日もピカピカの暑さで直射を避けて、巨木の連なる参道を歩くのは清々しく気分の良い歩きでした。参拝の後、記念に祝詞の冊子を買いました。祝詞は神にささげる言葉であり、仏教のお経のようなものなのかも知れません。お経の本は何種類か持っているのですが、祝詞はなかったので、ここで販売されているのを幸いと買い入れた次第です。

神宮に参拝した後は、ここに来ると必ず寄る場所が二カ所あります。その一は、神宮にほど近い場所にある「霧島町醸造所」という薩摩焼酎の蔵元です。もう一つは少し離れているのですが、福島町というエリアにある「くろず」の壺畑です。

霧島町醸造所は、12年前に偶然通りかかって、その頃はプレミアム付の焼酎の「明るい農村」というのを偶に味わって飲んでいたのですが、その醸造元が此処だったのです。寄らないわけには行きません。このような名前なので、町が経営しているのかと思ったら、それは違っていて、若い人たちが経営に係わっている雰囲気の蔵元なのでした。早速買い入れ、その後はファンになって、しばらく取り寄せて飲ませて頂きました。鹿児島と言えばイモ焼酎の本場であり、鹿児島に行って飲み屋で酒と言えばそれは焼酎のことであり、酒が飲みたい時には清酒と言わなければなりません。霧島町醸造所の明るい農村はそのようなイモ焼酎の激戦地で、毎年の品評会で第一位になるなど、常時上位入賞を勝ち取っている酒で、そのプレミアム度も上がっているのではないかと思います。この頃の自分は酒を控えめにしているので、取り寄せることはしなくなっていますが、久しぶりに折角来たのだからと自分の分と知人の分と2本を買い入れました。いい酒は何時までもいい酒として残って欲しいものだと思っています。

霧島町醸造所に寄ったあとは、くろずの町福山を目指しました。此処も12年前に初めて訪ねて、壺畑というのを見て驚き感動した場所なのです。それ以降我が家では、ここの醸造元からくろずを取り寄せて調理に使っています。なので、今回も是非寄ってあの景観をもう一度味わおうと考えていたのです。土地勘が薄れてきているのか、福島町の坂元醸造への道は結構遠くて、着くまでに時間がかかりました。着いてみると、こんなに海が近かったかなと思うほど桜島を遠望する海が近くに見えました。早速壺畑のあの逞しい景観をカメラに収めました。今回は此処で食事をしたかったのですが、今日はもうレストランは営業が終ってしまっているので、明日もう一度来て味わおうと、出直すことにしました。糖尿病の自分の体調維持のためには、あまり食事にこだわってはならないのですが、先日のセイロ蒸しといい折角の旅なのだから、そこでしか味わえないものは味わっておこうと、考えを切り替えたのです。そして翌日再訪して美食を味わったのでした。鹿児島県にはこのエリア以外にも再訪したい場所はたくさんあるのですが、今回は霧島神宮エリアだけに止めたのでした。

 

*霧島の神の宮なる地にあれば心清しく深呼吸する 

*霧島の大地と水が生み出(いで)し美酒は美酔の源となる

 

*初夏の海霞みて遠し壺畑

 

*くろず生む壺の畑は整然と並んで海を見下ろして在り

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