無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Forevermore』の"バンド・サウンド"について書こうと思っていたが、なぜかもう少し『忘却』について付け加えたくなったので、ややステップ・バックしよう。

賛否両論溢れるリスナーの反応とは裏腹に、ヒカルにとって『忘却』は『Fantome』においてかなり大きな意味をもつ曲だっただろう事は余り疑いがない。たった2曲しか歌えないセッティングだった『30代はほどほど』において『人魚』と共に選ばれたのだから。

『人魚』の方は、ある程度予想通りだった。数ヶ月先とはいえ新しくタイアップが決まっていたし、スタジオライブとなると使える楽器が限られてくる。ハープとドラムスさえあればOKな『人魚』が選ばれるのは自然であった。しかし、もう一曲が『忘却』になるとは、ちばくん(KOHHね)がゲストに来るとアナウンスされるまで毛ほども私は思っていなかったのだ。14年ぶりのライブ・ストリーミング・パフォーマンス、もしかしたら何十万、何百万という人が観るかもわからない。ここは無難に『花束を君に』を歌ってくるかな、なんて思っていたのだ。(余談になるが、18年もやってるアーティストの最新曲が"無難な選曲"になるって凄いよね。発表から僅か半年で『花束を君に』はスタンダード・ナンバーのひとつとして認識され始めていた)

そこに『忘却』である。『忘却』と『人魚』。いいのか? 前も書いた通り『人魚』は殊更地味な曲だ。『忘却』は素晴らしい楽曲だが、肝心のヒカルは出番が半分もない。半分以上、ちばくんがでずっぱりで歌っているのだ。11曲のうちの0.5曲ならまだしも、2曲のうちの0.5曲って25%だ。視聴率だとすると凄い数字。いやそれは違うけれど、せっかくの貴重なライブストリーミング、ヒカルの歌声を存分に堪能したいという向きには何とも釈然としない選曲となった。

そんな事は事前に容易に予想できた筈だ。それでもヒカルは『忘却』を披露した。この曲に対する自信のあらわれだろう。更に年明けには同曲のミュージック・ビデオまで発表した。特にタイアップが決まった訳でもないのに何故だ。『Fantome』の"顔"ともいえる存在になった『道』にはミュージックビデオが存在しないというのに。ここらへんからも、『忘却』に対する重視の度合いがみえる。極端な話、『Fantome』の楽曲の中でも優遇度は屈指ではないだろうか。

珍しいのは、ヒカルがこうやって力を入れてプロモートした曲が、ただ反応が強かったり弱かったりではなく、"拒否反応"というカタチで出てきた事だ。いや勿論、別人の人間の歌声が入っているのだからいつもに較べて拒否が多いのは自然な事なんだが、ヒカルには珍しく、そういった"劇薬的"な要素を、オブラートに包んだり根回ししたりしながら徐々に提示していくのではなく、こうやってただひたすらこの曲を押し出してきた。本来の(というか、昔の?)性格からすれば、出来るだけ拒否反応が出ないようなセッティングに心を砕いた挙げ句に楽曲をリリースしようとするのがヒカルってもんじゃないの、と。

例えばもっとちばくんに親しみを持ってもらってから『忘却』を発表していたら、反応も大分違っていた筈である。彼にBlogを書かせてもよかったし、予めヒカルとの対談を雑誌やホームページで公開したりして、彼のバックボーンや生い立ちを知って貰った上で『忘却』の歌詞を耳にしていたら、違った感想を持ったであろうリスナーは少なくなかったのではないかと思えるのだ。それをせず、いきなりあの歌詞に、アーティスト写真を検索すればイレズミがどうのこうのと物騒で。極論すれば、曲を聴く前の段階から、ちばくんについて検索した人は「KOHHは得体の知れない人物だ」とマイナス・イメージから出発していた、なんて風にも解釈できる。また逆に、アルバムを聴く前にクレジットを確認せずに聴き始めた人にとってはいきなりヒカル以外の声が聞こえてきて面食らっただろう。それが"いい印象"に繋がる事は、なかなか期待できない。

そういったなんやかんやをすっ飛ばして、ヒカルは『忘却』を「どんっ!」と発表する事を選んだ。そこまで手が回らなかったのかもしれないし、意図的かもわならないが、現実としてそうなった上で我々は次のアルバムを待ち始めている。もし次作にまた"KOHH"の4文字が現れたら皆どんな反応をするだろうね。予想もつかないが、ヒカルにとって"新しい"のは確かである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルは長年(18年間)打ち込み系シンガーソングライターという独自の地位を築いてきたから、聴く方もそのつもりで聴く。これはヒカルの世界であってヒカルの歌であってヒカルの言葉である、と。耳を傾けるのは純粋に宇多田ヒカルとの対話である、そう無意識下に植え付けてきた。

故に、過度なコラボレーションはファンの不興を買う。前作でも幾つかコラボレーションがあった。人選からして特別感のあった『二時間だけのバカンス』や、ほぼバックコーラスのみの参加の『ともだち』などは大丈夫だったが、KOHHの語りを存分にフィーチャした『忘却』は大変な抵抗にあった。

『忘却』はヒカルが『Fantome』においてフェイバリット・トラックとして挙げている曲である。リスナーと作り手の感想は頻繁にズレるものだが、『忘却』の場合はそれが甚だしかった。KOHHが云々以前にまず「こちらは宇多田ヒカルの歌声が聴きたいのだ」という大前提としての価値観があり、それをまず反故にした上でKOHHの個性の強さが問題になった。まずは声自体の違和感に始まり、次にその歌詞の感触の違いから来る異物感に襲われ、最終的には「ゲロ」の一言によって汚物感に変わる。斯くして嫌いな人は徹底的に嫌いなトラックが出来上がった。

しかし本来コラボレーションとはそういうものだ。汚物感にまでもっていったのはKOHHの責任だが、異物感まではそもそもそれがコラボレーションの狙いである。違うものと混ざり合う事で生まれる新しい何かに期待してコラボレーションは為されようとするのだ。

バンド・サウンドというのは、恒常的なコラボレーションである。前回書いたようにリーダーに忠実な部下ばかりの集まりは最早バンドというよりソロ・プロジェクトだ。個々が自分のパートに一家言を持ち、それらをどう折り合わせていくかが醍醐味なのである。バンドにとって妥協や軋轢は殆どにおいて必然であり必要なのだ。

では果たして今回の『Forevermore』はバンド・サウンドと呼べるのだろうか。呼ばなくても何ら問題はないしどう呼ぼうが聴こえてくるサウンドに違いは出ないのだがそこら辺は一度考えてみる必要がある気がする。次回に続こう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )